日本社会の疑問を考えるブログ

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「流行」とはなにか

 ファッション、新作アプリ、行列のできるレストランなど、「流行」というものが出現しては多くの日本人がそれに食いつき、数カ月したら何事もなかったかのように忘れ去られている。さて、ここでは「流行」の原理について考察したい。

 

 

誰が「流行」たらしめたのか

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流行になると、徹夜の行列ができることがある。

 

 先述したとおり、「流行りのもの」は突然現れ、社会を混乱させて、時間が経過すると何事もなかったかのように消えてゆく。そして、手を変え品を変え同じことが繰り返される。

 

 大都会に店を構えるようなところなら人目にも付きやすいし、かわいい洋服ならすぐ目について人気にもなるだろう。しかし、本来はひっそりとやっていた競技であった将棋*1など、明らかに目立たないものが突然人気になることがある。目につきにくいのになぜ人気になるのか。無名な人が他の人にその良さをアピールしたところで影響はたかが知れている。

 

 となると、「はじめは人気ではなかったが、誰かが人気になるよう印象操作した」ことになる。無名な人が印象操作しようとしたところで、そのためのツールはほとんど使えない。一応、比較的見られやすいものにTwitterがあるが、自身の投稿が短時間で流されてしまう点を考えると、フォロワーが少ない場合あまり意味がない。従って影響はほとんどない。となると、大々的かつ独占的に宣伝でき、かつ発信元がとても有名なものである必要がある。

 

  これを満たすツールとなると雑誌や大手サイト、テレビが当てはまる。これが使えるのはマスメディアのみである。

 

 これらの考察から、「流行」というものは、必ずしも初めから人気であるとは限らず、マスメディアが大々的に印象操作を行うことによって無理やり押し付けたものであることがわかる。

 

 メディアが取り上げるに至るまでの経緯は、メディアがマーケティング戦略として自発的に行った場合もあれば、自分の商品を人気にさせたいがためにメディアに金を払ってやってもらった、という場合もある。

 

「広告塔」としての芸能人

 メディアは影響の大きいツールを独占的に利用できるが、あるのは大きな会社だけで中の人は無名な人ばかりである。また、中の人だけではこのための戦略構想や宣伝する内容の編纂だけで手いっぱいだ。

 

 となると、影響力の大きい「有名人」にやってもらうことになる。それが芸能人、オリンピック選手、有名YouTuberなどの類である。当然彼らは対象としているものをベタ褒めする(別に指示のある場合は、相対的に人気にするためにネガティブキャンペーンを展開することもある)。テレビ番組やオンライン動画の合間にはCMが流れるが、本編もCMそのものである。要するに、我々は広告だけを嬉々として見ているのである。

 

 このように、有名人は広告塔としての役割を果たすのである。

 

「流行りのもの」≠「生活必需品」

 ところで、メディアや有名人はどんなものを取り挙げていただろうか?

 

 やたらと高価なiPhone最新モデル、絶賛された割にはそれほどおいしいものは出ない店、科学的根拠不明の飲料水、黒いゼリーが入っただけのミルクティー、芸能人が書いただけ、あるいは天皇が読んでいただけの小説本、一丁前に高いくせして使うから価値が下がるだけのカバンと腕時計、ネズミの着ぐるみが踊っているだけの夢の国…などなど。

 

 10万円を優に超えるiPhone最新モデルの分割払いの与信審査に落ちてTwitterでブチギれる人がいたが、25,000円のAndroidを買った方が経済的だ。健康に良いとされる飲料水についても少し論理的に考えればありえないことがわかる。

 

 このように考えていくと、流行りのものに、なければ生活が成り立たない、もしくは生活が著しく不便になるものはあっただろうか?おそらくないかと思う。そもそも必要なかったり、身近な安いもののほうがコストパフォーマンスが高い、というものばかりだろう。

 

「流行に乗らない」=「悪」と思っている人に要注意

 「流行に乗らない人ってダサいよね」などという言説は色々なブログや、へたすると有名人が言っていたりする。しかし、それに乗ってはいけない。煽られてモノを買ってしまってはこちらの負けだ。そういうのを目にしたら、まずは黙って10秒だけ数えてみよう。そしてよく考えよう。

 

 マスメディアや有名人が言っていた、そうでなくてもアフィリエイトバナーが見えたか広告代理店関係者であるなら、そいつは自分の利益になるから言っているわけで、そのためには我々がどうなろうが知ったことはないわけだ。いくら不安をあおられてモノを買ったとしても、そいつらは責任を取ってくれるはずはない。破産しようがどこ吹く風だ。だから、そいつらに騙されないように、そういう言葉やモノを勧めてくるような話には常に裏があると思って聞こう。

 

 それ以外の場合は、「あ~あ、信者になっちゃった」で放っておこう。某サイトには「流行に乗れない人は知能が低いから自己保身のため自閉的になっている」という人がいたが、知能が低いのはどっちなんだ、という感じでとらえればOK。流行りものなぞ宗教みたいなもの。画面の向こうにいるイケメンの芸能人だって、おいしそうな食べ物だって、あれほど嫌われたオウム真理教と一緒だ。

 

 ま、とにかく自分で考え、常に疑ってかかること。

 

結論

 流行物は廃り物、というように、流行など広告代理店やマスメディアが商業戦略のために捏造したものに過ぎない。流行こそ正義だと考える人もその取り巻きか、信者でしかない。

 

 最後に、広告代理店として名高い電通のポリシーを挙げ、それに対する我々の思考指針(要はその逆を実践すればよい)を述べて、筆を置きたい。

 

電通十訓

1.もっと使わせろ

→使って何があるの?どう役に立つの?それを使わないからって生活できなくなるわけないじゃん。節約しよう。


2.捨てさせろ

→まだ使えない?再利用できない?それでも無理ならリサイクルは?意味もなく捨てるのは環境に悪い。環境問題は自分に降りかかってくる。


3.無駄使いさせろ

→その買い物必要ですか?ないと死んじゃう?買わずに貯金しよう。塵も積もれば山となる。


4.季節を忘れさせろ

→季節に合わないものを買っても無駄になるだけ。今買う必要はない。その時になって考えればよい。


5.贈り物をさせろ

→毎年の贈り物ってめんどくせー。そんな金使うくらいなら貯金しよう。贈り物を要求してくる人間なんかと友達になるとこっちが損だ。


6.組み合わせで買わせろ

→最低限の必需品だけその都度買えばよい。組み合わせで割引とかいっても、合計金額は高いのは変わらない。


7.きっかけを投じろ

→また芸能人がなんか言ってるよ。こんなくだらないもの誰が買うか。


8.流行遅れにさせろ

→あなたが勝手に捏造しただけですよね?というか、流行に遅れようが生活には何の問題もないんで。


9.気安く買わせろ

→買わない。金がもったいない。


10.混乱をつくり出せ

→落ち着いてよく考えよう。そうすれば馬鹿馬鹿しく思えてくる。

*1:一例を取り挙げただけであり、決して将棋を批判もしくは蔑視しているわけではない。

広告の鬱陶しさを棚に上げて、広告ブロックが許せないとな?

 インターネット広告の増加に伴って広告の量が増えた。となると、目障りな広告も出てくるのであるが、そのニーズに対応したものが広告ブロックツールである。しかしながら、広告ブロックツールを「悪」とする意見もある。そこで、ここでは広告ブロックツールの正当性を述べたい。

 

 

うっとうしいインターネット広告

 様々なWebページが作成され、各企業同士の競争が激化するにつれ、そのページに広告をつけることが増え、今では(収益がどこへ行くかには違いはあれど)*1ほぼどのページにも広告が付いてくるようになった。

 

 一般的な広告はページの隅に物静かにいるものであるが、広告の増加による市場のレッドオーシャン化に伴い、非常にうっとうしい広告が出てきた。具体的にはメインコンテンツ部分にも広告がかぶさっている(大概やたらと多くあるか、やたらと大きい)もの、ページ(動画)閲覧途中で割り込んでくるもの、いきなり別のサイトに飛ばされるもの*2などがある。

 

 一応それらを手動で消すことはできるが、これにも対策がなされていることが多い。そもそも消したりスキップしたりするボタンがなかったり、あるにはあるが非常に小さいか消そうとカーソルを近づけるとすると逃げる(一時的に消えるがまた現れる)もの、消してもまた現れるものもある。

 

 これらは特にスマホに多い。なぜなら、スマホは画面が小さく、また標準ブラウザにつける広告ブロックツール自体がないため、画面を広告で埋めておけば誤タップによる広告収入につながるからだ。

 

広告ブロックツールとは?

 各ページは専用の文法により記述されている。それは広告の部分も例外ではない。広告ブロックツールは、広告を記述する部分をデータベース化し、それとの一致が見られた部分を非表示にするプログラムである。なお、サイト側のプログラムを改造しているわけではない。イメージとしては、テレビ番組の間にあるCMが流されている最中はテレビを消しているようなものであって電波ジャックして放送内容を変えてしまうわけではない。要するに広告を見ないのはツールを持っている人だけであって広告配信や他人が広告を見ることを妨げるものではない。

 

これで多くの広告は消えるが、それでも消えないものがある。大きく分けて2つあり、そのようなデータベースに追加され忘れたもの(もちろん広告主がデータベースから外れるように広告を作った場合も含む)と、広告主がブロックツール制作元に金を払って除外してもらう(Yahoo Japanはこれに該当すると思われる)場合がある。いずれにしても個別ブロック設定ができればこれらも消すことができる。*3

 

 ちなみに、私の場合はYahoo Japanの広告に嫌気がさしたので、片っ端から広告を消していったらこのようになった。ちなみに、同社のサービスを利用しているときにブロックされた広告数を数えると、当たり前のように数十個に上る。また当該ツールを使い始めたとき、開始1時間で100件以上もブロックされた。

 

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バカな鉄ヲタもいるんだなぁと思いながらすっきりとしたトップページを堪能しています

 

 さて、一部サイト運営者の中にはこのようなブロックツールを悪と考える人が多くいる。そこで、ここでは彼らの主張に反論したい。

 

広告ブロック批判への反論

広告ブロックと法律・利用規約について

 「広告ブロックツールは違法性がある、もしくは利用規約に抵触する」というものである。

 

 しかし、当然ながらそれを記した法律はどこにもない。六法全書を見てみればよくわかる。法律で禁止していないのだから、合法であり、違法であるとも刑罰を受けるべきともいわれる筋合いはどこにもない。それどころか、ドイツでブロックツール製作会社が広告代理店に訴えられた際、見事に原告の敗訴となり、ブロックツールの合法性が証明されたのである。したがって、日本でもこういった反例が取り入れられ、改めてブロックツールの合法性が示されることになると思われる。

 

 そして、利用規約に違反するかという話だが、多くのサイトでブロックツールの使用を禁止していないことは、利用規約を読み返せば明らかである。禁止しているのは「システムをハッキングして改造すること」であり、ブロックツールは原理上これにあたらない。

 

 どうしてもブロックツール利用者を排除したいのであれば、その旨明記しておけばよいものを。なお、「広告をつけています」だけでは不十分だ。それでは広告があることしかわからないからだ。要するに、利用規約に「当サイトは広告で利益を得ています。広告ブロックツール利用者を検出した場合、IPアドレスを特定して賠償請求します」とでも書いておけばよい。だが、なぜかしないんだな、これが。

 

広告と記事の品質

 次に気になった主張が「サイト運営者は広告によるインセンティブをモチベーションにして、記事の品質を保っている」ということである。

 

 これも疑わしい。実際、ただ広告(上記のような鬱陶しい広告含む)をたくさん貼っただけで、中身はどこかのサイトや動画の丸パクリ(コピー&ペースト)に過ぎないものも多数ある。これは広告をたくさん貼っているから運営者に多くの収益が行くはずだが、はたしてこれが高品質であるといえるだろうか。

 

 それと、広告収入があればあるほどモチベーションが高まって高評価な記事が書ける、という実証的研究は存在しない。というか、「高品質な記事」ですら主張者の主観でしかないのに、「広告を貼れば記事が高品質になる」という因果関係は存在しない。要するにこの主張自体がまぎれもないウソであるというわけだ。

 

無料コンテンツに対する対価

 先述のインセンティブと品質の関係に似た話であるが、一番主張されることである。「無料で見せてあげているんだから、その対価として広告も見ろ。広告をブロックするのは窃盗と同じだ」というものである。

 

 

 先ほども述べたように、広告をブロックすることは違法ではない。従ってこちらがわざわざ広告を見るあるいは表示する義務はない。「窃盗」という主張に対しても、コンテンツを剽窃(無断コピー)しているわけではないのでその主張はあたらない。

 

 

 また、このたとえ話として「学校給食をタダで食べる行為」と言われていたのを目にしたが、これも的外れである。例えで挙げている給食は元々が有料であるがWebページの閲覧は元々が無料であり、前提が異なるためである。これは他の有料商品など、受け手に債務が発生するものに対する例え話全般に言える。

 

 むしろWebページは駅前で配っているサラ金の広告付きのポケットティッシュと例えるのが適切であろう。これに当てはめて考えると、広告ブロックツールはティッシュだけもらってサラ金を利用しない、あるいはサラ金の宣伝を抜き取って捨てることは悪である、と言っていることと同じになるわけだ。当然多くの人はサラ金など利用しないし、中にはサラ金の宣伝だけ捨てる人もいる。実際この行動は一切責められるものではなく、逆に上記の主張をしたところで受け入れられない。よってたとえ話の面からも広告ブロックツールの問題性は認められないわけだ。

 

 

 それ以前の問題で、「無料で見せてあげている」と言っているが、ならばなぜ無料で見せているのか、ということになる。そもそも広告自体貼るにあたって何らかの審査があるはずだ。また、記事の内容によって広告契約自体が破棄されることもありうる。すなわち、その審査に通らなければ広告は貼れず、いくら記事を書こうが対価などない。要するに、無料で見せている時点で、広告が貼れない可能性がある以上その対価が保証されるわけがない。

 

 要するに、対価が欲しいのであればわざわざ無料の代わりに鬱陶しい広告をつけるのでなく、初めから有料サービスにすればよいわけである。実際、noteやKindle storeなどは有料設定ができるわけで。

 

 

 結局のところ、個人的に「こんなことされたらおまんま食い上げやんけ」と言いたいのを道徳的価値観にすり替えて正当化するのはいかがなものか、ということだ。

 

そもそもの問題は広告が鬱陶しいこと

 広告ブロックツールを悪と決めつける前に、広告ブロックツールが開発された背景を考えよう。もし広告が鬱陶しくなければそんなものに対する需要はなかった。しかし需要があるということは、最初に例示したような鬱陶しい広告がたくさんあるからに他ならない。儲けに必死になっているあまりメインコンテンツを邪魔してまで広告を乱造し、使用機器や調べものの効率を落とす。だから広告ブロックツールが利用されるわけである。どうわめこうがこの事実は変わらない。

 

 要するに、広告ブロックツールを恨むくらいなら、あなたが貼っている広告の鬱陶しさを恨め、ということである。同様に、「広告ブロックツールを使うなら私のサイトを見ないで」というのであれば、検索結果に引っかからないように調整するなり、あなたが管理するサイトの全ページに先述の利用規約のようなことを書いて検索で見えるようにすべきだ。そうすれば寄らなくなるから。

 

結論

 広告ブロックツールがあるのは鬱陶しい広告がやたら多くある割には、そういう広告をつけたサイトが検索に引っかかるからである。いくら広告ブロックツールが悪だと叫んでも、そういう広告が改善されない限りはブロックツールが衰退することはない。

 

 「このままブロックツールが広告をつぶしていったら面白いサイトがなくなる」というのも幻想だ。某芸能人が「嫌なら見るな」の直後に「テレビ潰したら見るもんなくなるで」といったのと同じレベルで、要するにコンテンツの面白さとか道徳的価値観はどうでもよく単に自分の利益が減るのをこういったもっともらしい理由で正当化しているに過ぎない。

 

 むしろ、鬱陶しい広告の淘汰が進むのはとても良いことだ。広告がやたらたくさんあってコンテンツの利用に支障があるようなサイト、コンテンツ自体が低品質なサイトは淘汰されていく。有料サイトばかりでも、必要なものだけお金を払って使うことで、インターネットの利用習慣もより合理的かつ平和的になるであろう。

*1:私のブログについているのは、私ではなくはてな側に収益が行くものである。無料プランのため、消せないとのこと。

*2:この多くはコンピューターウィルス感染や懸賞当選などを騙り、個人情報を盗み取るサイトへのアクセスやアプリのダウンロードを勧めてくるものである。おどろおどろしい音やカウントダウンなどで不安をあおるが、放置しておいても何も起きない。ただし、ブラウザバックで元のページには戻れないので、一旦ブラウザを閉じることになる。

*3:もちろん、サイト側も対策している場合がある。具体的には広告周りを別の要素で覆うことで消した場合必要な部分もすべて消えるようにする、たくさんの広告要素を用意することで消しても別のものが出るようにする、ブロックツール起動時にサイトが使えないようにする(アンチアドブロック。これもブロックツールで無効化できる)、有料プランへ誘導するなどがある。

コロナ騒動の良かったところ

 昨年12月ごろ発生し、世界に蔓延した新型コロナウィルスにより、我々は生活スタイルの変化を余儀なくされたが、なんだかんだで楽になったと感じる。

 

 そこで、コロナ騒動による生活の変化でよかったと感じたところ、学生及び労働者の2つの視点からを記したい。

 

 

両方の視点

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 大きな利点としては、長時間の移動をしなくてよくなった点である。

 

 多くの学校や会社は朝9時(場合によってはそれ以前にもなる)に一斉に始まる。そのためだけに朝6-7時に起き、8時前の混雑した電車に乗り、ヘトヘトになって移動する。毎日の移動で相当疲れているのか、毎日のように急病人と痴漢が発生する。

 

 しかし、コロナウィルスの影響で多くの人が登校や出勤停止を余儀なくされ、オンラインでの在宅受講や勤務をすることになったことで、移動により体力を減らしストレスをためることがなくなった。同様に、授業・勤務開始直前まで寝ることができるので睡眠時間を十分とれるようになった。さらに、実際の現場にいることによるコミュニケーション疲れも大幅に減らすことができた。

 

 

 「運動ができなくなって不健康になる」という声があるが、これはそうでもない。時間が空いたことでジムへ行って筋トレやトレッドミルなど、なければ近くでランニングやサイクリングをすることで汗を流すことができた。

 

労働者の視点

 主に在宅勤務の優位性と過剰サービスの不必要性が強調された形になった。

 

 在宅勤務の優位性については以下で記したとおりである。

 

fuckjapaneseculture.hatenablog.com

 

 先ほどの節と同じことであるが、具体的に言えば仕事中に周りがうるさく雑談やらを始め、場合によってはこちらを巻き込んで邪魔をする。で、定時が過ぎたら普通に他人に仕事を押し付け、断ると不親切だの怠けものだのよくわからないことを言う。

 

 しかし、在宅勤務ではそのようなことは全くない。会議時間以外はしゃべらないパソコンしかないので集中でき、効率的な作業ができる。早く仕事が終わればパソコンの電源を切ってプライベートな時間になる。一方で好きな時間に休んで好きな時間に作業できるし、会議であっても自分とは関係ないことを話しているのであれば無視して作業することもできる。

 

 さらに、何かとめんどくさく心身の疲労の原因となる飲み会などといった行事もなくなり、十分な休息が取れるようになる。

 

 

 在宅勤務以外にもよくなったものがある。それは接客業における過剰サービスを休止したことである。例えばスーパーマーケットのレジでは手で直接お金を渡さずトレーを使う、値段読み上げといった声を出す接客を減らすなどである。

 

 一般的に日本の接客業は低い賃金で高いサービスを要求される。しかし、このような事態でいったん休止せざるを得ない状況になったことで、そこまでのサービスが本当に必要なのか考えるいい機会になるだろう。

 

 ちなみに客にとっては特に迷惑ではない。サービスが減ったとしても特に迷惑や損害を被るわけではない。せいぜいクレーマーが嫌がるくらいだ。別にそういうのは何かといちゃもんをつけてくれるので、さっさと消えてくれた方がありがたい。

 

学生の視点

 学生にとっても素晴らしいことであった。同様にオンラインシステムを使った講義を取る形式になった。

 

 毎年ライブ授業を取る大学が一般的だが、講義は通信状態で画面共有(スライドの提示やOneNoteによる板書など)しながらしゃべればいいだけだし、演習も問題を配ってそれを解かせて提出させればいいだけである。*1私はコロナ騒動前に記事を書いたが、それが現実化しているようであった。

 

fuckjapaneseculture.hatenablog.com

 

 しかしながら、これでもライブ授業ではあった。何度も見返せる点やいつでも受講できる利便性・教員にとっては講義をする必要がほとんどなくなる効率性を考えると、録画授業をして配信した方がずっと良いとは思う。

 

 また、講義室はうるさいのが常であるが、自室で講義を受けられるようになったのでそれによる悪影響もほとんどない。さらに、チャット機能を利用して気軽に質問することもできるようになった。

 

 

 成果がものをいう演習では、在宅勤務と同じく課題を終わらせられれば、あとは自分のペースで進められる。終わったらさっさと提出できるし、前もって課題が配られる場合(講義の宿題となっているが次の演習の時間で行うことを想定しているものなど)では、講義後当日中にさっさと終わらせて提出すればその演習には出なくてよい。

 

 

 さて、実験装置を扱う類の研究は一切できないが、私の場合手先の不器用さと昨年教授と大喧嘩したことが原因で研究が頓挫していたため特に何のダメージもなかった。しかしながら、学内カウンセラーを間に挟んで協議をした結果、できる限り登校しなくてよい(理論計算がメインとなる)研究テーマに変えてもらった。そのために文献を読み知識確認のため要約文を提出するのだが、当然在宅で何の問題もない。

 

 また、日本的コミュニケーション力と教授との仲が大いに影響するface-to-faceでのディスカッションもすべてSlackでのチャットに置き換わったので、非常にコミュニケーションが楽になった。

 

コロナが収束してもこの生活の方が楽かも

 以上、コロナウィルスの影響で変わった生活の良かった点を述べた。これらは一時的なもの、ととらえられがちで、何らかの緊急事態が発生しない限りこのようなことは認められない場合が多い。

 

 しかしながら、この生活は非常に楽なものであり心身のコンディションを整えるためにも、このような生活様式が続けるべきだと思うし、また次に来る緊急事態*2の予行演習という意味でも通常時から頻繁かつ定期的(もちろん永続的に行うのでもよい)に行うべきであると思う。

*1:さすがに実験・実習はできない。これらはコロナウィルス終息後に集中講義として開講するとのことである。

*2:何もできなくなるような緊急事態であっても強行しろと言っているわけではないことに留意されたい。