「不寛容」には不寛容でなければならない
少数派や社会的弱者の権利を認めていこうとする行動など、寛容に向かう行動をしようとする。こんな時、不寛容に対して寛容になれ、といつものごとくおかしなことを言うバカウヨどもがいるが、それは間違いだと指摘したい。
杉田議員と阪大教授とヤフコメ民と…
LGBTの非生産的発言など、人権を踏みにじる発言がお好きな杉田議員。そんな中、阪大の教授が行ったこれらに関する研究を、いつものごとく、というか、自民党議員らしいが「捏造」と認定した。それに対し、教授はめげず、京都地裁に訴えを起こすことができたのだ。
mainichi.jp
同内容のYahooニュースのコメント欄では、やはり不寛容に対する寛容を認めよ(中には、教授自体や、その研究を認めない、つまり「寛容」すらも認めない人間もいる)、と誰得なのかわからない内容の主張をするバカウヨどもが湧いている。バカウヨどもは「肉屋気取りの豚」とは言い当て妙な皮肉だ。
寛容な社会にならねばならない理由
確実に「寛容である必要があるのか?」と愚にもつかない疑問を持ちかけるバカウヨどもがいるので、理由を説明しておこう。
利他的視点:「国の発展のためには国民の幸福が不可欠だから」
利己的視点:「自分が何らかの社会的弱者になった時、排除されずに済むから」
…これだけだ。前者についてだが、国から不寛容を伴わない幸福*1をもたらされずにどうして国の発展に協力しようとするのだろうか?洗脳する?それともいつものごとく非協力者のネガキャンをする?馬鹿な日本人は洗脳されやすいが、その中には洗脳しても気づく人間はいくらでもいる。そいつらが反逆するのも時間の問題だ。ネガキャンをしても同じだ。さて、国の発展のためには国民の幸福を必要とすることがわかった。では他者に不寛容な状態でどう彼らを幸福にできるというのか?無理である。
後者については、考えるまでもないだろう。「俺はそんなものにならない」と根拠のない前提を立てている人も、もう一度考えてほしい。
寛容になるためには
さて、タイトルの表すところを説明しよう。
Q.寛容になるために肝要なこととは何ですか?
A.不寛容に不寛容になることです。
ということである。 ほら見ろ、不寛容には変わりないじゃないか!とお思いのバカウヨどもは一度考えてほしい。なぜなら、不寛容に寛容になることはすなわち不寛容そのものであるからだ。理由は考えるまでもないが、バカウヨどものために説明しよう。
もし、不寛容に寛容になると、不寛容を主張するものは寛容な社会を破壊する。
従って寛容のためには不寛容に不寛容にならねばならない。
理由はこれだけだ。従って、誰であっても不寛容である権利は存在しないのだ。
補遺・寛容のパラドックス
以上で挙げたのは、哲学者Karl Popperの「寛容のパラドックス」である。参考文献を下に示した。

The Open Society and Its Enemies (Routledge Classics)
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*1:不寛容を含む幸福を得たとしても、遅かれ早かれその虚しさに気づくであろう。