日本社会の疑問を考えるブログ

日本社会で生きづらさを感じるすべての人へ…

差別を解消しない日本人

 差別を見た場合、それに声を上げ権利を認めさせるのが常識だが、なぜか日本ではそれがよくないものとされている。ここではその文化を批判する。

 

 

Unconscious biasと差別への気づき

 過去にあった経験を拡大解釈したのか、それとも元々あるものなのか、自分では気づいていないが差別的な思考及びそれに基づく行動をしていることを無意識の偏見(Unconscious bias)という。これが差別の原因となるが、差別が起こった際それを直ちにやめるよう、そして被差別者の権利を認めるようすぐに行動を起こすのが欧米人である。実際、トランプがLGBTに対する差別的言動とした際は

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このように、多くの人が集まり抗議活動を展開した。時系列は前後するが、欧米ではこのようなデモ活動が昔から積極的に行われており、結果様々な差別が存在することが知られており、彼らの権利が認められてきたのである。

 

 最近の話題だと、LGBTである埼玉県の高校教諭が、オーストラリアに移住したとき、日本では偏見のせいで自身がLGBTであることを隠して生きなければいけなかったのに、現地ではLGBTの別の男性が堂々と公言していて、隠す必要がなかったことを悟ったという。ちなみに日本では、安倍晋三が「公言しなくてもいい社会を作る」と、まるで言っては社会的に抹殺される社会にしようとしている発言をするほどだ。

 

差別を見たときの日本人の行動

 一方で、差別に対する日本人の思考はとても遅れているといえる。主な行動として、そもそも日本スゲーという妄想に浸っていて気づかないか、差別を見て見ぬふりをする。気づいていたら気づいていたらでいつものお家芸・被害者叩きを始める。全く関係ないところを結びつけては被害者を非難しだす。

 

 差別が表面化したら、なぜかその差別を正当化するのが日本人だ。例えば最近の医学部女性・年長者締め出し問題については「女性は子供産んで辞めるでしょ」「年長者は勤続年数が少ないから、年少者に席を譲れ」などといい、差別をかたくなに認めようとせず、区別だと言葉遊びを始める。

 

 差別撲滅運動を悪くみるのも日本人の遅れているところだ。元々決まっているからあるいは上が決めたものには逆らうのは絶対悪と決めつけている。で、行動しようとするものを馬鹿にしだす。いわゆる現実主義者の面を被った冷笑系だ。

 

 こういった差別の現状が認知され、権利獲得への運動が活発になってくると今度は「差別するものを差別するな」「不寛容に寛容にならないのはいかがか」「差別される権利がある」などとやはり言葉遊びをして反対しだす。別に彼らの権利を認めたところで何の不利益もないのに、なぜ権利を阻害したがるのか理解に苦しむ。

 

権利は認められてしかるべきだ

 タイトルの通り、差別があればすぐにそれを解消し、今まで差別されてきた人のあらゆる人権を認めるべきだ。このために、差別をされていた人もどんどんメディアで現状を問題提起すべきだ。そしてデモを何度も起こすべきだ。冷笑系や政府に負けてはならない。

 

 差別を正当化する者が言うような理由がある場合は、それを補うような方策を考え実行すればよい(例えば先ほどの女性・高年齢者の問題なら、それでも問題なく回るよう人数を多めに確保するなど)。


 逆に、差別を温存したがる組織や人はさっさと淘汰されるべきだ。差別は悪であるにもかかわらず屁理屈をつけて改善を渋るのは社会の前進を阻害する。自信に利益があるからだとか、足を引っ張りたいからだとか、理由は関係ない。社会の新陳代謝として彼らを淘汰せねばならない。同時に、我々はそのようなものを淘汰させるべく、そういう者は(企業の場合)利用・購入しない、信用しない、(政治家の場合)投票しないの3ない運動を心がけよう。