日本社会の疑問を考えるブログ

日本社会で生きづらさを感じるすべての人へ…

日本人の差別意識

 日本人は差別行為を働いておきながら全くそのような感覚がないばかりでなく、異常な被害意識を持っている。ここではそれを取り上げる。

 

 

差別の定義

 差別の定義は以下である。

年齢、性別、家族構成、家柄、障害の有無やその種類、雇用状況や職業、性的指向、婚姻状況、人種国籍、身体的特徴、政治的思想、宗教信徒であるか否かやその宗派、妊娠の有無、所属組織の有無やその種類

 

…を理由や標的として、本人に対し配慮に欠けた言動・行動をすること、本人の同意なく不当な取り扱いをすること、彼らの存在や尊厳を考慮に入れない言動・行動をすること

 ここ日本では、本人の同意なく無意識にこの定義に該当する差別行為を行っている、あるいはそれを楽しんでいる節が見られる。

 

日本人からの差別は全て「かわいがり」「区別」

 例えば、これを見てみよう。

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 ある事業所において、研修担当者がムスリムの実習生に対し、とんこつラーメンを食べさせ、食べた後から豚由来の素材が入っていることを言い、その反応を楽しんでいるものである。わざとこれを実行したのか、それともムスリムが豚肉を食べてはならないことを認識していないのか、このツイートで読み取ることはできないが、いずれにせよ以上で定義した「差別」に当てはまる。さて、ツイートを再度読んでみよう。

「悪気はない。許せ」

 とある。つまり、以下のどちらかであることが考えられる。

「あー、豚肉ダメなの知らなかったぁー(笑)、ごめりんちょてへぺろ☆」

「豚肉食べれないと言ってたけど大したことないでしょ」

「今はだめかもしれないが、こうして嫌な経験をしていくことでメンタルが強くなる」

 いずれにせよ悪質でしかない。初めの2つは、生来より禁止されてきた教義を踏みにじるものである。勝手に誰かが作る伝統もどきと異なり、宗教的な教義は非常に強固かつ絶対的なものである。したがってこれらを犯すことは彼ら自身の信念を踏みにじるものであり、認識が足りないで済むことではない。最後の1つはさらに問題だ。信念を踏みにじったうえ、しかも組織内の多数派を正義、彼らの信念を悪かつ多数派に足りない部分として認識している。また、「いやな経験が成長の糧」つまり「いじめ=かわいがり」と錯覚しており、ハラスメントの温床となるばかりか、個人が受けた不快感を個人の問題と帰着し、社会を問題視せず、社会の問題をそのまま押し付けている。

 

 次に、「ある属性を標的にした差別」を見てみよう。

  都内の建設会社で雇用していたベトナム人実習生に対し、首輪をつけて犬の真似をさせた。もちろんこれをやらせたのは日本人である。当然建設業に犬の真似をする業務は存在しないし、研修にもそのような項目は必要ない。となると、受け入れ元の日本人が、実習生の特性を標的にして、人格を傷つけることで快感を得ようとするためにしたことに他ならない。

 

 外国人に向けた例だけではない。日本人に対するものもある。例えば、大学院生のmkepaさん(Twitter:@mkepa5)が、研究費の応募をすべくその説明会に行った時、こんなことがあったそうである。

プロジェクトの責任者の40代半ば〜50代の男性教授が

「ちょうど応募資格に当たる30代くらいは、女性はライフイベントが重なりますから」

と言っていた。

子持ち男性の育休未取得はキャリア競争における不正。女が一人で「ライフイベント」を迎える?そんなわけあるかよ…。|mkepa|noteより。

 言い換えると、「女は結婚して子供作るから研究第一の姿勢を保てないでしょ?だから女には研究費はあげられないんだよね」ということである。おまけにこれを差別ではなく区別の内と認識している。これはほかの職業でもあり得て、女性だけでなく年齢や障害の有無といったその他属性でも不当に差別されることがある。あくまで重要なのは能力や実力であり、合計従事時間や姿勢およびそれに影響を及ぼすファクターではなく、説明や本人の同意なくこのようなことを強制するのは差別以外の何物でもない(一見上記の引用ではプロジェクト責任者が説明しているようには見えるが、本人が十分納得していない中での唐突な方針の提示であり、また聞いた側も十分同意できていない)。

 

批判されると被害妄想

 日本における差別は以上に挙げたもの以外のも多数あるのだが、国際的基準からみれば異常そのものであり、厳しい批判にさらされる。

 

 このような当然の局面になった時、日本人はなぜか被害妄想をする。よくある例として

「日本人(多数派)差別だ」

「外国でもありうる」「外国はもっとひどい」

「権利を認めると社会が壊れる」

などが挙げられる。なお、「〇〇の陰謀だ」といったバカげたものについては、反論するのも面倒なので、ここで触れるだけにしておく。

 

 「日本人差別」「多数派差別」というのは差別の構造上あり得ないことを指摘しておく。一般的に差別は、立場の強いものが弱いもの(日本では、多数派・少数派間でも当てはまる)に対して行われるものであり、その逆はあり得ない。もし、立場の弱いものが試みた場合返り討ちになる。したがって、日本人や多数派の立場が強いコミュニティにおいては、立場の弱い者の反発で差別解消や少数派の権利保障に向かうことがあっても、逆に差別されることはない。すなわち、彼らの言うことを要約すれば

「今まで通り差別できなくなる」

「ふざけんなお前!!差別ができなくなるとストレス解消できないだろ」

に、適当な理屈をつけているに過ぎない。

 

 また、「海外でもある」「海外はもっとひどい」については愚の骨頂といえよう。確かに、主張されるように海外でも同一の差別が行われているであろう。だが、だからといって悪いところだけ海外の真似をするのはよくない。すなわち、海外が悪かろうと、日本も悪いままでいてよい理由にはならない。当然改善する必要がある。

 

 「権利を認めると社会が壊れる」については、それなら壊れてください、としか言えない。権利を十分に認めない状態で社会を運営しているのであれば、それは誰かに苦痛を強いなければ運営できないような逼迫した状態であり、運営者か、その構造そのものに問題がある。となると、徹底的な改善か、破壊後の再建しか道はない。

 

冷笑系的・「差別に中立」

 差別に「中立的態度」は存在しない。差別に対し存在する選択肢は「差別に賛成」「差別に反対」の2通りだけである。中立的態度は「どちらも認める」と、一見差別撤廃に見せかけて、実際は差別に賛成していることに他ならない。

 

 例えば、以下に挙げるCのような人物である。

(Case1:黒人差別)

白人至上主義団体「黒人を殺せ!!」

市民団体「黒人にも権利を」

C「妥協すれば?」(市民団体に向かって)

 

(Case2:電車内での差別的言動)

 これに対する返信として

C「差別発言はよくないけど、郷に入っては郷に従えというしね」

  ここでのCは差別を完全否定しておらず、「される側にも原因はある」「原因によっては差別もやむを得ない」と言っているわけである。つまり、差別に賛成しているわけである。

 

 差別はいかなる理由があろうとも行ってはならないものである。それを理由付きで認めるということは差別撤廃達成への足かせとなる。また、割れ窓理論から考えられるように、別の理由を挙げてこれもまあいいか、となって、結局は差別が全面的に認められてしまうようになる。

 

島国根性のなれの果てか

 ここまでたっても何やら言い訳を言って差別を撤廃しようとしないのは、島国根性が原因であろう。誰も来ないから配慮など必要ない、という怠慢そのものである。