日本でしばしば強調される言葉である「コミュニケーション能力」およびその略語である「コミュ力」。それと同時に、「コミュニケーション能力」に問題があると思われる人をけなす言葉である「コミュ障」という言葉がある。そこで、ここではコミュニケーション能力を改めて考え、日本人そのものが「コミュ障」であることを述べたい。
コミュニケーション能力とは?
「コミュニケーション」という言葉の意味は以下のようである。
情報が象徴や記号を通して、送り手から受け手に伝えられる過程。
情報が伝わる過程でノイズ(雑音)が入ったり、情報を暗号化する過程や情報を読み解く過程で誤ったものが伝えられることもある。
良いコミュニケーションとは、自分の情報を正確かつ効率的に記号化し、受け手に意図通りに届かせることである。
(広告用語辞典)
要するに、言葉などを使って相手に自分の意思を伝える行為そのものであり、コミュニケーション能力というものはその能力であるから、言葉や文字をその辞書的な意味通りに使って意見発信ができればコミュニケーション能力は十分である。
「コミュ力」≠「コミュニケーション能力」
さて、日本ではコミュニケーション能力の略語である「コミュ力」といわれる単語をよく聞くが、国際的なコミュニケーション能力とは全くの別物である。
こんな記事を見かけた。
この記事を参考に、「日本型コミュニケーション能力」(以下、コミュ力)を定義してみたい。
「コミュ力」の定義
(1)たとえ相手が発信していない、または逆の意味を持つ意思伝達をしている場合でも、相手が思っていることを読み取る力→「ご機嫌取り」
(2)社会的に高位の者、多数意見、伝統を判別し、それに異を唱えない→それによるいかなる理不尽も受け入れる
(3)上記で形成された「常識」に反するものおよび批判意見を押しつぶすための方法論→威圧、論点すり替え、議論放棄
(1)は、小学校からセンター試験に至るまで「国語」の「小説読解」として教えられてきたことに対応する。 どんな時にどう感じるかなど人次第、さらには場面次第であるため、心情やその人が期待している行動などその人にしかわからない。
その人が明瞭かつ正確に意思を発信した場合に限りこちらがその意思をくみ取ることができるが、大概の場合こうなっている。
- あいまいな意思伝達だったり
- そもそも意思伝達がなされていない
- 場合によっては逆の意味をもつ意思伝達がなされているため
なぜか?それはこのような行為が日本人の間で常態化しているからである。
(2)については、例えば会社内での上司からの理不尽が挙げられる。法律にも労働契約書には書いていないにもかかわらず花見の場所取りといった雑用を押し付けられ、社内運動会や飲み会といった行事に強制的に参加させられる。
異を唱えること自体は可能だが、上司の権力によって不利益を被るようになっており逆らえないようになっている。例えば、京セラおよびその関連会社では、社内行事を欠席した際、稲盛とかいう年を取っただけのバカが提唱した「フィロソフィ」に反するということで上司からのお説教にあったり査定に響くそうである。
なお、ここでは会社内の上司の権力について述べたが、これはあらゆる場面で権力を持つ者が、権力で不利益になるようにするため逆らうことができなくなる。要は社会的身分は権力により形成されたものである。
このように権力により弾圧された人たちが集まり、日本人の民族性が合わさった結果同調圧力が生まれる。これが改善されず長い間放置されたものが「伝統」「常識」である。
(3)については、Twitterなどでのレスバトルを見てみればその様子が一目瞭然であろう。例えば「天皇の存在意義は?」などと問うたとしよう。帰ってくる答えは意味不明なものばかりである。「お前よりかは意味がある」(誰も比較はしていない)、「お前は韓国人か」(なぜ国籍の議論になる)、「なら出てけ」「これ以上言ってもわからないなら知能の問題」などと論点すり替えや議論放棄をするだけで答えになっていない。
これは他の「伝統」や「常識」でも当てはまり、日本人はこれらの存在意義に対する答えを出したり、疑問を持つことや廃止へ向けた議論ができない。それもそのはずだ。物心つかないころから権力と同調圧力で無理やり信じ込まされ抑圧されてきたのだから。こんなことしてしまうと苦しんできた自分のアイデンティティが崩れてしまう。
もう一度書くが、このようなコミュニケーション手段は日本のみで行われており、グローバルスタンダードではそんなことはない。ではどうするのかというと、伝えたいことはすべて言葉や文字にするだけである。同様に、「察する」必要もない。なぜなら文字になっていないからだ。
「コミュ力重視」の弊害
前項で「コミュ力」について考察したが、それを重視してしまうとどんな問題が起きるか考えたい。
ミスコミュニケーション
これは前項の(1)から起こることである。明瞭かつ正確な意思伝達をしない、もしくは同じ内容の意思伝達を複数の意図として用いるため、誤解が生じやすい。また、コミュニケーション手段が確立せず、意思伝達が円滑に行われない。
実際このような問題が起きている。
飲み会のお誘い
「今度飲み会があるのですが、○○さんはいらっしゃいますか」
(強制)「権力や同調圧力、伝統などのため来い」
(任意)「文字通りの意味」
(拒絶)「来てほしい人は聞かない。それを前提に聞くことで、行かないという意思を引き出そう」
→このように同じ内容でも異なる意味を持つ
小説読解
問:「この場面は、作者がどんな気持ちで執筆したか」
正解とされるもの:「作者は非常に悲しい思いだった」etc.
実際:「作者は原稿の締め切りに追われていてそれどころでなかった」
→的外れな解釈
組織の腐敗
これは(2)(3)にあてはまることである。変に権力や同調圧力、伝統とやらを重視しすぎるせいで不合理な慣習や理不尽な扱いなどが正当化されてしまう。また、こういったことの原因である権力者を追い出すことができなくなる。結果的にその組織自体が機能不全に陥るリスクがある。
要求水準の高度化
本来意思伝達手段はそれが指し示すもののみを伝える「コミュニケーション」としてのためのものであり、「コミュ力」のために要求される事項はその機能を大きく逸脱している。
すなわち「コミュ力」はできて当たり前のものではなく、むしろできない方が正常なのである。しかし日本でこのような間違った言説がまかり通っていてはコミュニケーションに対する要求水準が大きくなり、コミュニケーションするたびに心身をすり減らしてしまう。
結局日本人がコミュ障だった件
まとめると日本人のコミュニケーションは
- 意思伝達手段の間違った使い方をしている
- 権力者に対する批判的思考をできなくさせる
ものであり、これができない者を「コミュ障」と言っているわけである。
とはいうものの、こんなコミュニケーションが取れるのはコミュニケーション手段の機能上、超能力者か統合失調症患者しかいない。
こう考えると、「超能力が当たり前」と思っている日本人の方が「コミュ障」で、「アスペ」といわれる方が正常ではなかろうか。
正しいコミュニケーションの仕方を考える
- 意思伝達は、言葉や文字を使いはっきりと簡潔に、過不足なく。
- 正確に。内容を減らしても受け取れないし、逆のことを言ったらそう受け止められる。
- 「権力に逆らうためのコミュニケーション能力」を身に着けよう。
執筆後記・予備校講師のたとえ話
ほとんど関係ないが、この記事を書いて思い出したことを記したい。
私は高校生の頃東進ハイスクールに在籍しており、無料体験キャンペーンがあったので、現代文の基礎講座を受講した。担当の宗慶二先生は次のようなことをおっしゃっていた。
東進ハイスクールの講師となる前、開成高等学校の教諭を務めていた。
入試問題作成業務にあたった際、題材として「蟹工船」(小林多喜二)を選んだ。この小説の最後で「カニコウセン」とカタカナで表記されている部分があったが、そこに目をつけ作者の意図を記述させる問題を出した。
しかし、この問題文を目にした小林多喜二は「あれは印刷ミスだ。そんなところを深読みするなんてバカじゃねーの」(意訳)という自伝を残した。
その後、この自伝を目にし、大きなショックを受けた。
当時の私は知識不足のため信じてしまったが、「蟹工船」の本文には「カニコウセン」という記述がないこと、小林多喜二は戦時中に亡くなっていることなどからこの話は真っ赤なウソである。
とはいえ、今回述べた問題のたとえ話にはなると思う。

- 作者:多喜二, 小林
- 発売日: 1953/06/30
- メディア: ペーパーバック