日本社会の疑問を考えるブログ

日本社会で生きづらさを感じるすべての人へ…

発達障害者の学生生活指南 小中高ver.(前編)

 近年、(日本ではまだ遅れているものの)社会的な生きづらさが認知されるようになりある程度市民権を獲得した「発達障害」。発達障害は身体障害と違いその特性が見えづらいため周囲と勘違いされてしまうことがある。

 

 ここでは、自身の経験をもとに発達障害者が小中高校で生活するうえで留意した方がよいこと、また発達障害者をご子息に持つ保護者の方においてもご子息を理解し援助するために参考にしていただきたいことを述べていく。

 

 

発達障害の学校での苦労

 インクルーシブ教育の重要性がいわれて久しいが、日本の学校は多様な生徒が来ることを想定していない。

 

 このため、生徒全員が同じであるという仮定の下、多様な生徒を一部屋に押し込み、画一的な価値観に基づく硬直化した教育手法がとられている。

 

 この条件の下では、教員などの権力により理不尽を押し付けやすく、全員がそれに従うことが求められる。この結果「反発するものは許せない」「達成できないものは無能」という認識が共有され同調圧力(これが「絆」「団結」とよばれるものである)が生じる。

 

 これにより割を食うのは日本人が作り出したステレオタイプにはまらない人たちだ。その中には障害者も含まれ、様々な形でいじめや迫害、差別を受けている。とりわけ発達障害者は障害の特徴が見えにくいためただのわがまま、ととらえられてしまう面もある。

 

 そこで、ここでは私が小中高と経験してきたことをもとに、発達障害者が学校生活を送るうえで気を付けておいた方がよいことを列挙していく。

 

「やる気」「努力」だけではなにも解決しないことを知る

 各教科の成績が振るわなかったり、学校行事の練習などでひどく叱られた、あるいはこれらなどで人間関係が思わしくない、などといったことが起こるであろう。

 

 こんなとき理解のない人(体育会系の人に多い)が言いがちなのが「やる気を出せ」(「誠意を見せろ」「努力しろ」なども同様)である。

 

 本人はいたって本気であるにも関わらず、結果が伴っていないことをやる気や努力のの問題、と決めつけられたせいでどうしてよいのかわからなくなる。

 

 そもそも、結果というものは努力ややる気だけによるものではない。本人の才能や環境(人間関係、予算など)、そして取り組む方法に大きく依存し、そのうえで努力ややる気がわずかに底上げする程度のものである。

 

 さらに、努力ややる気そのものも才能や環境に依存する。もともとの才能の差や環境の結果やる気を失い努力できない状態になる場合も多い。

 

 

 これからいえることは、結果が出ないからと安易に努力ややる気の問題としないことであり、周囲にもそう決めつけないことが求められる。

 

 もし結果が出ないときどうするか。才能は生まれつきなのでどうしようもない。そこで、

  • 環境を変えてみる→人間関係をリセットするためクラス替えや転校を考える
  • 結果が出るような取り組み方を基本からステップバイステップで教えてもらうよう依頼する→例えば、逆上がりは練習をたくさんすればできる、とするのでなく、具体的な体の動かし方やそのための基礎体力作りから教えてもらうようにする。もしくはそれ専門の教室に頼む。
  • 結果が出ないことをしなくて済むよう調整してもらう

 

友達100人…はあきらめよう

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 童謡「一年生になったら」に「友達100人できるかな」というフレーズがある。だが、このフレーズは生徒に強迫観念を抱かせるものである。まるで「友達はたくさんいるのが素晴らしい」、逆に「友達がいないものは人間性に問題がある」と言わんばかりの歌詞だからである。

 

 現に、日本の学校ではこれに基づいた教育が行われている節がある。一人でできることもわざわざグループを組んでやらせる。そして、その相手がいないのを見てはまじめに取り組んでいないとみなす。

 

 この方針では、日本独特のコミュニケーションが苦手な発達障害者はこういったグループ作業に関し苦戦することが多い。結果的に友人を多くは作りづらい。

 

 

 つまり、発達障害者には以上のフレーズのように友達をたくさん作ることはあきらめてほしい。友達を作らないことは悪だと思って友達作りに必死になるのは精神をすり減らす。もしたくさんできたとしても「地雷」のような人(利用するためだけに友達になろうとする人など)を友達にしてしまったり、一人になる時間を確保できず心身共に疲弊したり、携帯電話などが手放せなくなる(いわゆる「未読スルー問題」)。

 

 友達を作るのであれば、以下のような人を選ぶとよいであろう。

 

  • ありのままの自分(障害特性含む)を理解してくれる人
  • 一人になる時間を認めてくれる人→特に、未読スルーなどで何度も連絡してきたり、それだけで交流関係にひびが入ったりしないか
  • ゴシップ(芸能)好きでないこと発達障害者にはこのような話題は苦痛である。また、ゴシップ好きの場合言いたくもない秘密を執拗に聞いてきたり、根も葉もないうわさを立てたり、人に秘密を言いふらしたりするため

 

 もちろん、該当者がいないあるいは作りたくない場合は無理に作らなくてもよい。

 

できるだけ一人になる時間を作ろう

 以上に続く話だが、できる限り一人になる時間を作るべきだと考える。

 

  友人をたくさん作っておくと、中には常にコンタクトを取っていないと気が済まない人もいるので、精神的休息のためにも一人になる時間を確保することを勧める。

 

 また、どんなことも誰かと一緒に行う癖がついていると、いざ一人で行動しなければならなくなったとき、どうしてよいかわからなくなるので、一人で過ごす習慣をつけて自主自立的に考え行動できるようにしておきたい。

 

よく考えて学校行事に出るか決めよう

 体育祭や文化祭といった学校行事による悪影響についても無視できない。

 

 練習から本番まで、過酷な運動や教師や周囲からの叱責により体力や精神をすり減らすこともしばしばある。

 

 無理してまでそれをするくらいなら、いっそのこと休んでしまった方がよい。事実休んだところで単位を落とすことはない。授業全体に占める行事やその練習の割合などたかが知れているし、そもそも含まれていないこともある。

 

 確かに休むことで同じようなバッシングを受ける可能性があるが、こちらはごく短時間である(長時間続くにしてもバッシングより放置の側面が強い)。練習や本番に参加して常時バッシングされ、精神を病んでしまうと取り返しがつかない。

 

 

 (※)「サボるからバッシングされるんだよ」とお考えの体育会系および自称善良な社会人の皆さん、では発達障害者などが参加するだけでバッシングせず本人の心身を痛めないように配慮することができますか?仮に練習で期待された行動ができない場合、本番で結果を出せない場合、責めずに受け入れることができますか?あと、「指摘」「𠮟咤激励」のつもりでも本人には「バッシング」「攻撃」にとらえられる可能性があることをお忘れなく。

 

後編に続く