日本社会の疑問を考えるブログ

日本社会で生きづらさを感じるすべての人へ…

教員に大会出場など要求するな

 中学・高等学校では、やたらと部活動に熱を入れていて、中には大会出場をさせるところも多く存在する。しかし、これは生徒にとっても教員にとっても悪影響でしかない。ここではその理由を考えたい。

 

 

なぜか学業より優先される部活動

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 多くの中学校・高等学校で存在する「部活動」。学業とは無関係で、給料が出ないので教員もやる必要はない。が、なぜか生徒側には入学時強制的にどこかしらの部活動に加入させられることとなっている。*1で、途中退部した場合、ただ部活動の中でやりたいことがなかっただけなのに、すぐに教員間に噂が広まり、なぜか周りから問題視され、また転部も簡単ではない。*2

 

 教員の側に立っても不可解だ。給料も出ないのに、「校務分掌」といわれ勝手に任される。おまけにその教員の知識や適性などほぼお構いなしで欠員が出たところに放り込まれる。このせいで教員はただですら教科指導で大変なのに部活動についても勉強しなければならなくなる。辞めた生徒は問題があるという偏見を押し付けられ、そういった生徒に指導しなければならなくなる。このせいで深夜帰宅が続き、過労死してしまった教員も存在する。

 

 さて、その部活の延長線上で、大会がある。全国・世界大会に出れるのはごく限られているが、地区予選くらいなら大体どの学校も出る。これに出ろとか、これで優勝しろとか、全国大会に出ろとかウルサイモンスターペアレンツのおかげで、やたらと部活動が大変になる。そのせいで生徒は授業中寝たり大会の日を公欠にしたりで学業がおろそかになり、教員は教材研究の時間が無くなったりこいつらの圧力のせいで実力の上がらない生徒にストレスや不安を感じて体罰に走ったり。学業の息抜きとしてゆるーくやるのが部活動のはずだが、なぜか学業より優先順位が高くなっている。

 

 このような状態は本来学校が教科指導を行うところという観点から不適当なものであり、生徒・教員ともに悪影響を及ぼしている。そこで、ここでは部活をゆるーくやり大会出場を目指さないことの利点を生徒・教員両方の視点から考える。

 

生徒は学業に集中できる

 そもそも本来は、学校は学問を提供するところであり、部活動はそのおまけというか学業の息抜きである。従って学問を究める気がないのなら去るべきで、また部活動が学業に優先していること自体がおかしな話だ。

 

 部活動が夜遅くまで続いていたり、朝早くの登校を強制されたせいで授業中寝たり考えがまとまらなくなったりするのは、そもそもその部活動自体に無理がある。部活動のせいで学業がおろそかになるのは本末転倒だ。学習指導要領で規定された「主体的に学びに向かう態度」などは達成できるはずはない。

 

 これは過酷な練習による疲労や睡眠不足が原因であるが、もしこの原因の部活がなければどうなるか。生徒は学業に向かうことが出来る。あるいは十分な休息の時間を設けることが出来る。これにより勉強のパフォーマンスがさらに高まるものと推測される。

 

 これ以外にも、生徒の健康を維持することも可能になる。ある高校では、甲子園に出るため過酷な練習を続け、結局肩を壊してしまった人もいる。けがは一生ものの負債だ。こういう過酷な練習をやめるだけでも健康も維持することが可能になる。

 

教員は過労にならずに済む

 教員の側にとっても、本来教科指導が仕事のはずの教員が部活のせいで教材研究・教科指導に充てることが出来る時間が少なくなったり、そのせいで休息ができなくなり過労死するのは大きな問題だ。

 

 そもそも教員は教科指導がメインなのであるから、部活はあくまでおまけ程度、あるいはそもそも担当しない、と断固拒否するくらいでないと教科指導や教材研究に十分な時間を割くことが出来ず、これらのクォリティも高いものとはならないであろう。

 

 同様に、いろいろ立て込んだせいで過労死するということは労働者の人権含む各権利を蹂躙しているとしか言えない。教師は聖職者でも奴隷でもない。一般の労働者である。従って定時の設定とその遵守や残業代の完全保障、有給・育児休暇といったあらゆる権利が保障されてしかるべきだ。もし部活動が労働者の権利を侵害するようならばそもそもそれは存在してはならず、即刻廃止すべきだ。廃止することにより教員の労働者としての生活が改善されるとなるととても良い効果といえるであろう。

 

正しい部活動の在り方

 ここでは、生徒の学業も教員の業務・生活を圧迫しないように、部活動のコンセプトを考える。一言でいうと「ゆるーくやる部活動」である。すべて生徒・教員の疲労を少なくし、彼らの本分に時間を当てられるようにする。

  • 開始・終了時間を定める。放課後の活動は、終業後から17:30まで、後片付け含めて17:45までには完全撤収できることを原則とする。また各人の十分な睡眠を確保するため、朝練習は絶対に行わない。参加欠席、遅刻早退は自由。また、これ以外の暗黙のもの含む強制参加活動が出現しないよう配慮すること。
  • 激しい運動など、生徒の健康を損なうことは行わない。
  • 基本的に大会は目指さないスタンス。みんなで楽しくやればいいや、くらいで。また、本来やりたかったことを十分やらせるため、1年に球拾いをさせるといった学年などによる差別は禁止する。
  • 加入、途中入部、転部、退部などはすべて自由で、容易にできること。また、これらを行ったことで学校内での身分や権利に影響がないようにする。
  • 基本的に生徒が自主的に組織し自主的に行うもの。教員はかかわらないか、希望する場合希望する部活指導に就け、かつその場に立ち会うだけでよい。希望教員がいない場合は外部の指導員を雇用すればよい。彼らは正規職員とする。*3

 

大会に出したい?なら個人で勝手にやれ

 「うちの子は全国大会・オリンピックに出させる!」「絶対優勝!」などと寝てもいないのに寝言を言うモンスターペアレンツに言っておく。そもそも教員はそこまでいかせるほどの指導能力がない場合がほとんどだ。また教員はそれ以外で忙しい。そんなことを頼むなら他を当たれ、といいたい。

 

 もし自分の子にそこまでの実力があると思うならプロテストでも受けさせたり、エリートアカデミーにでも入会させたらどうだ。そこには凄腕の指導者がいるから。それと、学業に優先してまでそういうことをやらせたいのなら、学校をやめさせろ。学校はそういうところじゃない。

 

 それと最後に。本当にあなたのお子さんはそれを望んでいますか?大して才能もないのにあなたたち毒親が強いるせいで神経をすり減らして過剰に努力しているだけかもしれませんよ?まずはあなたもお子さんも第三者と面談が必要です。一つはお子さんの意思を確認するためで、もう一つはあなたの狂った思考をカウンセリングするためです。

*1:一部では運動部に強制加入となっている場合もある。

*2:新入生は体験入部の後入部届提出で簡単に入部できるのに対し、それ以外の期間や上級生の入部を認めていなかったり、これらに該当する人は長期的な仮入部期間において入部可否を審査されることがある。日本の新卒一括採用に似ているが、話がそれるのでこれ以上は触れない。

*3:本来なら労働者の正規・非正規は廃止すべきものだが、ここではある前提で考える。

「自称・普通の日本人」が考える「大人」の定義

 Twitterや各ブログを見ていると、「自称・普通の日本人」や冷笑系が自身の持論を展開しているのを見かける。その中に「中二病」という単語を見つけたので、その対義語と推測される「大人」の定義を考え、それをまとめたい。

 

 

絶対に日本を批判せず、韓国に八つ当たりする

 彼らのすさまじいところとして、なぜか日本批判をかたくなとして認めない点である。確かに、根拠のない誹謗中傷や明らかに嘘とわかるものについては反論してもよかろう。しかし、過労死問題や刑事司法の非人道性、行き過ぎた同調圧力による政治の独裁化など、根拠や事例が存在し、あるいは世界的に有名な問題ですら認めようとしないのである。これらを批判した場合、なぜか「あなたは日本のこういういいところを見逃している」「今の現状が最高だ」などと現状肯定をしだすのである。それ以外にも「海外にはこういう問題(無関係なもの)がある」、「そういうお前はどうなんだ」「このデータは嘘だ、欧米諸国の陰謀だ」「嫌なら出ていけ」しまいには「失せろ韓国人」などと思考停止して人格攻撃・論点すり替え・無意味なレッテル貼りに走るのである。

 さて、「嫌なら出ていけ」と書いたが、これは自国が批判されたときだけである。なぜか彼らは「お互い様」というフレーズが頭にないらしく、他国は思い切り誹謗中傷する。こちらも根拠やデータの提示は一切ない。あったとして出所不明のネット情報くらいだ。昔は中国に対してもそうであったが、Shenzen地区の興隆やHuaweiの台頭によりやっと日本が没落していることに気が付いたのか一旦は落ち着いた。しかし、それすら認めたくないのか、下に見えそうなものを作ってたたき出したようだ。その対象が韓国である。誹謗中傷の具体例として「韓国人臭い」「キムチを食べるのは低所得者」(日本文化チャンネル桜での発言)などがある。もはや批判の体をなしておらず、ただのウンコ投げ競争と同じレベルだ。いや、それより程度が低いか。

 ちなみに、韓国は急成長しており、やはり日本を追い抜くことが期待されている。例えば、理工系研究開発分野*1では、韓国科学技術院(KAIST)が急成長しており、発表論文数で東大を追い抜いている。で、世界大学ランキングでやはり東大含め日本の全大学を抜いた。これからは、研究開発分野だけでなく、製造など他分野でも日本を追い抜かしていくことが期待される。

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韓国科学技術院(Korean Advanced Institute of Science and Technology,KAIST)

 

 大衆&権威&伝統を無条件肯定

 そして、普通の日本人に見られる性質として、なぜか大衆が絶対正義と妄信してやまないことが挙げられる。確かに、思考バイアスがかかっておらず、十分に思考・行動能力がある人たちが独立に考えれば、自然現象のプロットが正規分布に従い、その平均・最大値が真の値といえるように、最大人数の考えが正確であると言えよう。しかし、日本人の場合教育の成果(?)やメディアの構成*2により思考・行動能力が完全に欠如している。従って何者かが悪意をもって操ろうとした場合それに容易に乗せられる。また、日本人は特に周りの考えに乗せられやすい国民性であるため独立に考えることもできない。*3さらに、その割には権威によって思考バイアスがかけられているため考えも偏っている。これらの理由により、大衆がいるところを目指しても、そこは偏向した考えしかなく、真に正しい考えではないのである。

 また、権威の言うことも疑ってかかることができないのも日本人の性質である。自分で考えることをやめ、権威が決めることだからと丸投げする。だから権威の決めたことはすべて正しい、与党政治家はすべて正しい、などと勘違いをするのである。当然権威が流したデマやプロパガンダも簡単に信じる。これが一般的に自民党が長期政権を担い、ほぼ一党独裁となったり、日教組だけ叩かれて清和活動研究会はスルー*4だったりした理由と考えられる。

 伝統についてもなぜか変えようとしないのが大人といわれる普通の日本人のヘンテコなところである。例えば、天皇の合理的存在意義を聞いたときは、「学校で帰納法を習いましたか?」などと言いだす。おそらく数学的帰納法だと思われるが、そもそも初期状態の正当性証明ができていないため、そもそもこの仮定が成り立たない。これは年齢主義といった儒教文化にも当てはまる。これらはいずれも、ただ何年も続いているだけで、それが真に正しいとは限らない。ちなみに、先ほど嫌韓の話が出たが、文化のうち韓国の者を継承しているものも多くある。嫌いならさっさとその文化を変えればいいのに、なぜかあれこれ理由をつけてやらないのが普通の日本人である。

  

バラエティ番組&日本・自民党礼賛メディア以外は理解できない

 バラエティ番組やワイドショー、エンタメといった、ただ芸能人がどうでもいい内輪ネタばかり話し、何の有用な知識にもならない番組しか理解できないのが普通の日本人だ。真面目なニュースや教養番組は全く理解ができない頭なのが日本人である。同様に、陳腐な日本礼賛番組が大好きなのも普通の日本人の特徴だ。ただトイレから水が出ているだけなのにやたらそれを持ち上げる。ただ外国人が「へー、すごいね」と社交辞令程度の反応を返した際も「素晴らしい!こんなものウチにはない」などと過度に誇張する。ジャロに通報した方が良さようなものばかりだ。

 同様に、自民党礼賛メディアが大好きなのも重要な性質だ。根拠のない誹謗中傷やら昔のことを過度に蒸し返した非難、無関係なことを結びつけるなどで、過度に他の政党を誹謗する。だとすると自民党も当てはまることも多数あるが、なぜかそちらは誹謗されない。

 これは、おそらく普通の日本人のニーズであろう。現に、それをくみ取ったような記事構成ができているものもある。それがYahoo! JAPANだ。

 

だったら大人になりたくない。中二病でもいいや

 以上が、「自称・普通の日本人」が言う「大人」の定義だと推測される。結局大人というのは、どんな不都合があろうとも現状肯定し、逆に解決しようとするものの足を引っ張って自己満足し、不安を紛らわすため思考停止してエンタメや八つ当たりに走るものだ。こんな大人を見ていると大人にはなりたくないって常々思える。むしろこういう大人は社会の害悪でしかない。

 彼らが我々のことを中二病というのであれば、むしろそちらの方がよい。中二病と呼ばれる人たちは現状に問題があれば絶えず思考行動し社会をよい方向へもっていくことができる人たちであるからだ。

*1:人文・社会科学系分野は日本の方がずっと上だ、などと愚にもつかない反論をする人がいるので、ここで断っておくが、最近最近だと政府側がこういった分野への助成をやめるよう提案し、実際にそうしているため、こちらも衰退していることを追記しておく。

*2:エンタメやワイドショー、バラエティ番組の比率が高いことを指す。

*3:要するに、マルチ商法と同じことが起こっている、というわけ。

*4:体罰問題。特段日教組系教員だけが体罰をふるっていたわけでなく、清和活動研究会系の教員もそうであり、むしろこちらの方が体罰を肯定していたため、より多く体罰を起こしていたといえる。なお、筆者は体罰を肯定しているわけではないことを付記しておく。

「自称・社会的強者」への違和感

 Twitterを見ていると、しばしば社会的強者(富裕層、資本家、経営者、与党政治家など)を過度に擁護しているものを見かける。実際に社会的強者ならともかく、そうでもないのにこんなことをしたがる人が多くおり、違和感を禁じ得ない(実際、「貯金50万目標」「月給15万」などとお世辞にも社会的強者ではないとわかるツイートをしている)。そこで、ここではその違和感について述べたい。

 

 

不利益につながるのに崇拝している

 彼らは社会的強者ではないにもかかわらずそれを擁護する発言を数多くしている。具体的には「高所得者所得税を上げろって、かわいそうだと思わないの?」とか「消費税を上げろ」などである。また、共通点として、弱者切り捨てや富裕層・大企業優遇政策を展開している自民党(安倍政権)を支持しているものが多くみられる。

  もう一度書くが、自民党は弱者切り捨て・富裕層優遇政策を多くとっている。それにもかかわらずなぜか彼らは自民党を支持している。支持し、政権が続けば当然富裕層優遇の政策が続く。また、その優遇の程度がさらに大きくなる。なお、自民党の人間は「トリクルダウン」すなわち富裕層を儲けさせればその利益がその他へ再分配されることを強調していたが、全くそんなことは起きていない。ただ富裕層の儲けが増えただけでそれ以外は何も起こっていない。

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トリクルダウンの理想(上)と現実(下)を描いた風刺画。続きとして、外国人投機家が一番上のグラスにストローを差してワイン(=利益)を吸い取っているものもある。

 となると、社会的強者ではなければ、自民党を支持することは 自身の不利益につながる。また、社会的強者を擁護したとしても彼らがますます儲かるだけで何の利益にもつながらない。むしろ彼らが調子に乗って搾取に励もうとする。

 このように、富裕層や自民党を擁護したとしても自身の不利益につながるだけである。不利益に自ら飛び込んでいく理由が理解できない。

 

社会問題を考える頭がない

 日本には数えきれないほどの社会問題がある。だが、彼らはそれを認識していないか、甘えの一種か、左翼や朝鮮人が勝手に作ったデマだと思っているようだ。その証拠に「それは自己責任だ」「まともにやっていればこうはならない」などと繰り返し言う。周囲の環境要因や社会的要因などを全く考慮しない。さらに、なぜか不幸自慢・苦労自慢をしたがるようだ。「俺が若いころはこのくらいじゃなかった」「俺はもっと苦労した」などと。

 最近だと、カネカ株式会社が、育児休暇取得への嫌がらせとしてある男性社員を急に転勤させようとし、かつ退職までの有給休暇を拒否した問題で、「こんなことをするのって社会人というか男としてどうかと思う。まぁそのうち炎上するでしょ」などと発言する人がいた。これから見ても、社会問題を解決しようとするより既存の質の悪いルールに悪乗りして足を引っ張る性質があることがわかる。

 このように、社会問題の原因を分析することが全くできない人たちである。また、なぜか不幸でいることがお好きな人たちで、苦労している自分かっこいいなどと勘違いをしている。おまけにその苦労を人に押し付けようとする質の悪い人たちである。結局はみんなで幸福になるよりみんなで不幸になった方がよくて、足を引っ張って自己満足をする人たちなのである。

 

「感謝」を強要する

 前の項目で「苦労を押し付ける」と書いたが、同様に「感謝を押し付ける」ことも大きな特徴だ。つい最近だと堀江貴文氏がデモに対し「税金泥棒」とツイートした件に関し、賛同して「富裕層のおかげで生きていることを知った方がいい」などとツイートする人たちのことを指す。

 確かに感謝するのはとても良いことだ。しかし、なんの恩恵も得ていないのに感謝できるはずがない。ましてやそれを押し付けられ、社会問題解決へ向けた行動の足を引っ張るために使われるとなると、ますますその感謝の強要に悪意が潜んでいると考えざるを得なくなる。

 また、この感謝を強要することについてだが、もう一つ危険な面がある。それは裏を返すと「社会的弱者は社会に迷惑をかけている」という思考につながる点である。それがエスカレートしたのが相模原市障害者施設での大量殺人事件である(実際犯人を擁護するコメントが多くみられた)。社会的弱者だろうと犯罪行為をしていなければ何の迷惑でもないにもかかわらずあたかも迷惑だと錯覚させる発言をするから困りものだ。むしろ社会的強者の方が搾取に励んでいたりとそちらの方が迷惑な気がするのだが…。

 

強者のふりをしても強者にはなれない

 分析してみれば、社会的強者でもないにもかかわらず、以上の行動をしている理由がわかった。これら行動はあくまでその一部で、結局は社会的強者に成りすましているだけだろう。その理由として成りすますことであたかもそれになった気分になり、そういう自分に酔いしれているのだろう。

 ただ、成りすましたところでそれはなりすましに過ぎないことを言っておく。つまり、成りすまししたところで実際にそれにはなれない、ということだ。わかりやすいたとえ話をしよう。中年のハゲたおっさんがイーストボーイのなんちゃって制服を着ただけで女子高生になれると思うか?当然答えはNoだ。これと同じで、社会的強者の真似をしても社会的強者になれるわけではない。

 社会的強者になるためには投資や経営などで成功するしかないが、結局そうなるためにはなりすましではなく初めから自分がそうするのが一番だ。どうしてもそれができないなら、少しでも自分が豊かになるよう行動すべきだ。例えば先ほど挙げた例のようにデモやストライキを繰り返し行い社会的強者と交渉、最終的には決闘し、権利や福祉、富を奪い返されなばならない。

 最後に言っておく。社会的強者の真似をして彼らを擁護し、社会問題解決の行動を冷笑していてもあなたの生活は豊かにならないことを。