日本社会の疑問を考えるブログ

日本社会で生きづらさを感じるすべての人へ…

学校の七不思議(前編)

 小中高校は多くの人が通っている、もしくはいたであろう。その中には訳の分からに事がしばしば起きていた。そこで、私が学校生活で感じた不思議なことを、2記事にわたり7つ列挙したい。

 

 

(1)清掃

  わざわざ時間や体力を無駄にして掃除をさせる。それも異常に非効率な方法で。

 

 掃除機を使わずに埃の絡まりやすいほうきやちりとりを、広範囲を拭けるモップを使わずに雑巾を使わせる。たまに「やる気のある」教員がきれいになっていない箇所を指摘することがあるが、それは道具が非効率だったからに他ならない。

 

 清掃活動の理由を聞いても不合理なものしか返ってこない。よくあるものとして

 

  • 「自分が使った場所だから自分できれいにする」→自分が使っていないエリアは?それなら職員室は教員が清掃すべきだし校長室は校長がすべき。同様に来客が使ったエリアは来客がすべき。
  • 「将来掃除ができるように仕方を学ぶ」→掃除の方法などググればOK。
  • 「いいから掃除しなさい」→やだ。

 

 それに、清掃活動事態「労働」に類するものであり、本来は賃金が発生してしかるべきであるが、やはり無償である。

 

 ただ学校にお金がないから権力でやらせておいているだけなのに、それを「教育」だとほざくから厄介なものだ。

 

(2)意外とある「体罰

 一般的に教員の体罰は禁止されており、発覚したら大問題になる。実際そういった話がニュースになり懲戒の対象となっている。

 

 しかし、当然全部の体罰がニュースになったり教職員の懲戒対象となっているわけではない。実際私は教員より以下のような体罰を受けた。

 

  • 雑巾を投げられた
  • 胸ぐらをつかまれ壁にたたきつけられた
  • 飛び蹴りを受けた

 

 これ以外もあるが、当然体罰である。

 

 確かに教員には「懲戒行為」として生徒の体に触れることが認められている。ただし、「懲戒行為」であるのは暴れまわるなど言葉では制御することのできない児童生徒を一時的に拘束する程度に限られ、それであっても行ってよい行為に制限がある。今回の場合威圧目的である以上懲戒行為ではないうえ暴行罪にあたる。

 

(3)何のための行事...?

 

f:id:fuckjapaneseculture:20200515224336p:plain

 

 学校行事というものは「特別活動」に位置するが、学習指導要領およびその解説にはこのように書いてある。

 

全体目標

協力し、よりよい学校生活を築くための体験的な活動を通して、集団への所属感や連帯感・公共の精神を養う

 

文化的行事

学習活動の成果を発表し、自己の向上の意欲を一層高め文化や芸術に親しむ

 

健康安全・体育的行事

心身の健全な発達・健康の保持増進、事件や事故・災害等から身を守る安全な行動や規律ある集団行動の体得、運動に親しむ態度・責任感 ・連帯感・体力の向上

 

解説(一部抜粋)

多様な他者を尊重し、協働してよりよい生活づくりに参画しようとする連帯感を養う

 

 目標とされているのは「協力」であって「隷従」ではない。また、「よりよい学校生活」「健康の保持増進、事件や事故・災害等から身を守る」とある以上このようなことが認められてしかるべきだ。

 

熱中症対策のため、練習をいったん中断し日陰で水を飲む

 

・トイレに行きたくなったので行く

 

・練習や準備があまりに遅くなったので、途中で切り上げて帰宅する

 

  しかしながら、なぜか一般的にはできないことが多い。教員の権力により却下されてしまう。前回の記事で記した通り、こういった抑圧が同調圧力を生むのであり、これがとんでもないことになることもある。実際、合唱コンクールの練習の際トイレを我慢し続けて失禁してしまった女子生徒までいた。

 

 本来、健全かつその内容に親しんで行う行事であるはずが、誰かが長時間かつ心身に苦痛を及ぼす練習法を取り入れ、しかも行事への参加そのものを強制するせいでこのような問題が生じている。

 

 競争やそれにまつわるもの(順位付けと表彰といったインセンティブなど)は一意には悪いとは言えない。ただし、優勝(入賞含む)に過度に固執することによって各メンバーが心身的に苦しむのであればそれは問題だ。学習指導要領では行事に親しむ程度のことしか書いていないのであるから、優勝を目指さない自由も勝負から降りる自由もあってしかるべきだ。要するに、個人で優勝を目指すのは勝手だが、他人を巻き込んだり課外に人を拘束するな、ということ。

 

 また、この目標にあたりもう一つ言えることがある。確かに「親しむ」などと書いてあるが、こういった感情は生徒側が自発的に発露するものであって、教員側が植え付けるものではない。したがって(体育系にありがちだが)「楽しさを味わわせる」というのは楽しむことを強制しており、エゴの押し付けか洗脳のたぐいである。さらに、マラソン大会では参加できなかった生徒を(理由の如何によらず。出席しても時間切れなら欠席扱いとなる)予備日に走らせるという体罰レベルのことをやらかしていた(どうも高校選びだけでは男子10 km以上のマラソンは避けられない模様)。

 

 いくら「頑張っているのは誰のためなんだよ!!」などと怒鳴られても、そりゃあんたの虚栄心を満たすために無理やり動員させられてるんだろうがとしか言えない。ちなみに、こういうことをするのは担任の名前をチーム名(例えば、担任が山口先生の場合は「山口組」となる)にしてデカい横断幕に書くようなところはそうなりやすい気がする。

 

 (※)ちなみに、私は高校のあたりから学校行事に嫌気がさし、球技大会は300系新幹線のさよなら運転(のぞみ347号)に行き、文化祭は予備校で勉強してました。

 

(4)何のために呼びつけた?

 文化祭や体育祭となると、クラスで準備するのだが、そのたびにお呼び出しがかかる。

 

 とりあえず行ってみるとさほど作業している様子がなかった。しばらく時間がたってもだべっているだけで作業する様子がない。結局下校時間になっても作業は終わらず。おまけに何日も拘束しやがる。

 

 人を呼び出して拘束するなら効率的にやって、とっとと終わらせろ。

 

 「協力しない」「みんな面倒だ(暑い、苦しい)けど頑張ってきているんだよ!!」とか言っているが、何の解決にもなっていない。

 

 苦痛を正当化&強制するくらいなら、「苦痛なら早くしなくてよくなるように工夫しろ」ということ。

 

後編へ続く

本当の「コミュ障」は日本人なのでは

 日本でしばしば強調される言葉である「コミュニケーション能力」およびその略語である「コミュ力」。それと同時に、「コミュニケーション能力」に問題があると思われる人をけなす言葉である「コミュ障」という言葉がある。そこで、ここではコミュニケーション能力を改めて考え、日本人そのものが「コミュ障」であることを述べたい。

 

 

コミュニケーション能力とは?

  「コミュニケーション」という言葉の意味は以下のようである。

 

情報が象徴や記号を通して、送り手から受け手に伝えられる過程。

 

情報が伝わる過程でノイズ(雑音)が入ったり、情報を暗号化する過程や情報を読み解く過程で誤ったものが伝えられることもある。

 

良いコミュニケーションとは、自分の情報を正確かつ効率的に記号化し、受け手に意図通りに届かせることである。

(広告用語辞典)

 

 要するに、言葉などを使って相手に自分の意思を伝える行為そのものであり、コミュニケーション能力というものはその能力であるから、言葉や文字をその辞書的な意味通りに使って意見発信ができればコミュニケーション能力は十分である。

 

コミュ力」≠「コミュニケーション能力」

 さて、日本ではコミュニケーション能力の略語である「コミュ力」といわれる単語をよく聞くが、国際的なコミュニケーション能力とは全くの別物である。

 

 こんな記事を見かけた。

livingphilosophy.hateblo.jp

 

 この記事を参考に、「日本型コミュニケーション能力」(以下、コミュ力)を定義してみたい。

 

コミュ力」の定義

(1)たとえ相手が発信していない、または逆の意味を持つ意思伝達をしている場合でも、相手が思っていることを読み取る力→「ご機嫌取り」

 

(2)社会的に高位の者、多数意見、伝統を判別し、それに異を唱えない→それによるいかなる理不尽も受け入れる

 

(3)上記で形成された「常識」に反するものおよび批判意見を押しつぶすための方法論→威圧、論点すり替え、議論放棄

 

 (1)は、小学校からセンター試験に至るまで「国語」の「小説読解」として教えられてきたことに対応する。 どんな時にどう感じるかなど人次第、さらには場面次第であるため、心情やその人が期待している行動などその人にしかわからない。

 

 その人が明瞭かつ正確に意思を発信した場合に限りこちらがその意思をくみ取ることができるが、大概の場合こうなっている。

 

  • あいまいな意思伝達だったり
  • そもそも意思伝達がなされていない
  • 場合によっては逆の意味をもつ意思伝達がなされているため

 

 なぜか?それはこのような行為が日本人の間で常態化しているからである。

 

 

 (2)については、例えば会社内での上司からの理不尽が挙げられる。法律にも労働契約書には書いていないにもかかわらず花見の場所取りといった雑用を押し付けられ、社内運動会や飲み会といった行事に強制的に参加させられる。

 

 異を唱えること自体は可能だが、上司の権力によって不利益を被るようになっており逆らえないようになっている。例えば、京セラおよびその関連会社では、社内行事を欠席した際、稲盛とかいう年を取っただけのバカが提唱した「フィロソフィ」に反するということで上司からのお説教にあったり査定に響くそうである。

 

 なお、ここでは会社内の上司の権力について述べたが、これはあらゆる場面で権力を持つ者が、権力で不利益になるようにするため逆らうことができなくなる。要は社会的身分は権力により形成されたものである。

 

 このように権力により弾圧された人たちが集まり、日本人の民族性が合わさった結果同調圧力が生まれる。これが改善されず長い間放置されたものが「伝統」「常識」である。

 

 

 (3)については、Twitterなどでのレスバトルを見てみればその様子が一目瞭然であろう。例えば「天皇の存在意義は?」などと問うたとしよう。帰ってくる答えは意味不明なものばかりである。「お前よりかは意味がある」(誰も比較はしていない)、「お前は韓国人か」(なぜ国籍の議論になる)、「なら出てけ」「これ以上言ってもわからないなら知能の問題」などと論点すり替えや議論放棄をするだけで答えになっていない。

 

 これは他の「伝統」や「常識」でも当てはまり、日本人はこれらの存在意義に対する答えを出したり、疑問を持つことや廃止へ向けた議論ができない。それもそのはずだ。物心つかないころから権力と同調圧力で無理やり信じ込まされ抑圧されてきたのだから。こんなことしてしまうと苦しんできた自分のアイデンティティが崩れてしまう。

 

 

 もう一度書くが、このようなコミュニケーション手段は日本のみで行われており、グローバルスタンダードではそんなことはない。ではどうするのかというと、伝えたいことはすべて言葉や文字にするだけである。同様に、「察する」必要もない。なぜなら文字になっていないからだ。

 

コミュ力重視」の弊害

 前項で「コミュ力」について考察したが、それを重視してしまうとどんな問題が起きるか考えたい。

 

ミスコミュニケーション

 これは前項の(1)から起こることである。明瞭かつ正確な意思伝達をしない、もしくは同じ内容の意思伝達を複数の意図として用いるため、誤解が生じやすい。また、コミュニケーション手段が確立せず、意思伝達が円滑に行われない。

 実際このような問題が起きている。

 

飲み会のお誘い

「今度飲み会があるのですが、○○さんはいらっしゃいますか」

(強制)「権力や同調圧力、伝統などのため来い」

(任意)「文字通りの意味」

(拒絶)「来てほしい人は聞かない。それを前提に聞くことで、行かないという意思を引き出そう」

→このように同じ内容でも異なる意味を持つ

 

小説読解

問:「この場面は、作者がどんな気持ちで執筆したか」

正解とされるもの:「作者は非常に悲しい思いだった」etc.

実際:「作者は原稿の締め切りに追われていてそれどころでなかった」

→的外れな解釈

 

組織の腐敗

 これは(2)(3)にあてはまることである。変に権力や同調圧力、伝統とやらを重視しすぎるせいで不合理な慣習や理不尽な扱いなどが正当化されてしまう。また、こういったことの原因である権力者を追い出すことができなくなる。結果的にその組織自体が機能不全に陥るリスクがある。

 

要求水準の高度化

 本来意思伝達手段はそれが指し示すもののみを伝える「コミュニケーション」としてのためのものであり、コミュ力」のために要求される事項はその機能を大きく逸脱している。

 

 すなわち「コミュ力」はできて当たり前のものではなく、むしろできない方が正常なのである。しかし日本でこのような間違った言説がまかり通っていてはコミュニケーションに対する要求水準が大きくなり、コミュニケーションするたびに心身をすり減らしてしまう。

 

結局日本人がコミュ障だった件

 まとめると日本人のコミュニケーションは

 

  • 意思伝達手段の間違った使い方をしている
  • 権力者に対する批判的思考をできなくさせる

 

 ものであり、これができない者を「コミュ障」と言っているわけである。

 

 とはいうものの、こんなコミュニケーションが取れるのはコミュニケーション手段の機能上、超能力者か統合失調症患者しかいない。

 

 こう考えると、「超能力が当たり前」と思っている日本人の方が「コミュ障」で、「アスペ」といわれる方が正常ではなかろうか。

 

正しいコミュニケーションの仕方を考える

f:id:fuckjapaneseculture:20200514180954j:plain

 

  • 意思伝達は、言葉や文字を使いはっきりと簡潔に、過不足なく。
  • 正確に。内容を減らしても受け取れないし、逆のことを言ったらそう受け止められる。
  • 「権力に逆らうためのコミュニケーション能力」を身に着けよう。

 

執筆後記・予備校講師のたとえ話

 ほとんど関係ないが、この記事を書いて思い出したことを記したい。

 

 私は高校生の頃東進ハイスクールに在籍しており、無料体験キャンペーンがあったので、現代文の基礎講座を受講した。担当の宗慶二先生は次のようなことをおっしゃっていた。

 

東進ハイスクールの講師となる前、開成高等学校の教諭を務めていた。

 

入試問題作成業務にあたった際、題材として「蟹工船」(小林多喜二)を選んだ。この小説の最後で「カニコウセン」とカタカナで表記されている部分があったが、そこに目をつけ作者の意図を記述させる問題を出した。

 

しかし、この問題文を目にした小林多喜二は「あれは印刷ミスだ。そんなところを深読みするなんてバカじゃねーの」(意訳)という自伝を残した。

 

その後、この自伝を目にし、大きなショックを受けた。

 

 当時の私は知識不足のため信じてしまったが、「蟹工船」の本文には「カニコウセン」という記述がないこと、小林多喜二は戦時中に亡くなっていることなどからこの話は真っ赤なウソである。

 

 とはいえ、今回述べた問題のたとえ話にはなると思う。

 

 

 

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

 

日本人と「時間厳守」

 日本人は「時間を厳守する」国民といわれるが、ここでは「時間を守ること」の背景にある様々なことを考えたい。

 

 

自発的に時間を守っているのではない

f:id:fuckjapaneseculture:20200508221240p:plain

 「日本人は時間を厳守する」といわれるが、自発的に厳守しているか疑問である。ここで、仮説として

 

「時間を守らないことによる不利益があるから守る」

 

 ということを考えたい。例えば労働では遅刻すればその分給与が引かれるし、場合によっては昇給などの査定に響く。要するに金が出るから遅刻しない、ということである。

 

 このような物質的なものだけでなく、心理的なものもある。例えば福知山線脱線事故の際、担当運転士は列車の遅延に対する上司の過度な叱責を経験していたとのことである。このような「叱責」は様々なところで起きるため、それが怖いから時間を守る、という人も多いのではないだろうか。

 

 遅刻が本人の責に帰さない場合もなぜか叱責の対象となる。例えば先ほどの運転士の場合だと、乗客同士のくだらない喧嘩など、乗務員の責に帰さない遅延原因がほとんどであるのになぜか担当運転士の責任にされているわけである。

 

 さて、話を変えて、このような不利益がない場合を考えよう。その場合日本人は時間を守るかどうか。例えば街にショッピングに行くとき、いつも「○○時に買えるように、その10分前には店の前にいるようにしよう」などと思うだろうか?福袋セールなど例外はある(これも、時間通りに着けないことによる不利益が動機である)が、そんなことは必ずしも毎回はは思わないし、ましてや実践はしないはずだ。

 

 同様に、自分が相手より権力があるとき(あるいはそう思う、思われているとき)にそうしようと思っているだろうか?これにも例はあり、24時間営業をしているコンビニが「24時間営業辞めます」と言ったらどうするだろうか?中には怒る人もいるはずだ。これも、「店舗が提示した営業時間中に行く」という「時間厳守」を守れていない証拠である。

 

守る時間とそうでない時間がある

 このような話がある。

 

  

 始業時間・就業時間ともにチャイムが鳴ることは同じなのだが、始業時間に遅れたら何らかの叱責が飛んでくる。いや、給与が出ないはずの始業前ですら(もちろん法にも労働契約にもない)ギリギリだからと叱責されることすらある(結果、暗黙の了解で出社時間がずれてしまうことも)。逆に、終業時間については守らないことが推奨され、むしろ守ると逆に叱責されるというよくわからないことが起きている。

 

 時間厳守が社会人として当たり前だというのであれば、そういったところも守るべきであろう。労働者と会社は契約の関係であり、定時が契約された時間なのだからそれ以上拘束することは許されない。いくら「これでも昔より改善された」などと言っても基準を満たしていないのだから論外である。

 

 そのほか、「部下は上司より早く来い(遅く帰れ)」などというのも同様の問題である。「時間厳守」を強制するのであれば、そこには身分や職位による厳守の程度が変わってはならない。

 

時間厳守は幻想でしかない

 結局のところ、日本人の「時間厳守」というのは、以下にまとめられるだけであり、「厳守」とは程遠いものである。

 

・不利益があるから守っているだけ

・都合の良いところだけ守っている

・何をどのくらい守るかなんて権力者次第

 

時間厳守である必要はあるのか?

 そもそも時間厳守である必要はあるのか?労働など「一人ではやりきれないことを誰かにお金を払ってやってもらうこと」なのだから時間厳守である必要はない。遅刻しようが今日のタスクを予定通りに終わらせればそれでOKではないか。