日本社会の疑問を考えるブログ

日本社会で生きづらさを感じるすべての人へ…

発達障害者の学生生活指南 小中高ver.(後編)

 前回、発達障害者が学校で過ごすうえで留意した方がよい点をいくつか挙げた。この記事が長くなってしまったので、今回はその後編を記す。

 

前編はこちら

 

 

 

「体育」に要注意

 前の記事で体育教育の問題点を書いた。

 

fuckjapaneseculture.hatenablog.com

 

 集団で理不尽を与える性質上発達障害者に特に向かないのが体育である。逆に言えば理不尽にはきちんと反論できるという長所がある。そこで、以下のような配慮ができないかお願いしてみる。

 

  • 集団競技を避けるようなカリキュラムを組み、個別指導してもらえないか?
  • 自分で負荷を調整できないか(走る速度を落とすなど)?
  • 各学校行事(体育祭・マラソン大会)への参加に関し配慮してもらえないか?参加する場合でも時間制限走行距離などを緩くしてもらえないか?

 

健康維持のためにできること

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 体育は苦手であってもスポーツは苦手とは限らない。以下のような条件をそろえれば、種目を限定するものの「自尊心が傷つけられることなく」「無理のないペースで」運動することができる。結果的に健康増進につなげることができる。

 

インストラクター

 体育教師と異なり、ジムのインストラクターは「褒め」を念頭に置いて指導を行っている。どこかで目にした話だが、「コウペンちゃんとサーバルちゃんの融合体」のようなものである。

 

 このようなインストラクターの選び方は、

 

  • 体育教師でなく、特定分野への専門性を持つインストラクターをつける。要するにジム。
  • 初めからできなくても、また練習の結果が伴わなくても叱責しない・軽蔑しない人を選ぶ。「できなくて当然。だから一から教える」という考えのインストラクターを選ぶ。
  • いきなり種目に入るのでなく、基本的な体の動かし方から教えてもらえること。
  • もし、上記を満たさないインストラクターなら変えてもらおう。もしくは別のジムに移ろう。

 

ジムの雰囲気
  • 自分で負荷を調整できること。例えば疲れたときランニングマシンの速度を下げることができる、ウェイトトレーニングで重さを調整できる、など。
  • 試合に出るかでないか、そのためにチームを組むかどうかは自分で決められること。ジム側に強制されないこと。
  • 自分のペースでできること。周りに過剰な負荷を強いられたりしないこと。

 

将来的なキャリアを考える

 学科はどうでもよく、適当なネームバリューのある(偏差値の高い)大学を選んでおいて、就職活動でどうにかすればいいや、という過ごし方が流行っているが、発達障害者にはお勧めできない。そのため、以下のように過ごすことで、キャリアを念頭に置いて過ごしてほしい。

 

  • 今まで過ごしてきた中でどのような教科・科目が得意だったか。また、好きだったか。
  • 将来的にはどんなことをしていたいか。進学先はその準備になるようなことを身につけさせてくれるか。

 

受験について

 とはいえ、学歴で評価される面もあるにはあるので、ある程度は社会的評価のある大学を選ぶとよい。ただし、やりたいこと・学びたいことを優先に考え、それができる学科がある大学で、自分が目指せる程度の大学を志望するとよい。

 

中学受験について

 高校や大学受験になるとある程度本人の意思にもウェイトが置かれるが、中学受験は親の意思が反映されやすい。実際親のエゴによって、本人が希望していないにもかかわらず塾に無理やり通わせられ、受験付きの中学校に押し込められることがある。

 

 中学受験については、決して「我が子は絶対に開成へ行かせる」みたいな感じでブランドだけに目がくらんで本人の希望や適性を無視するようなことは避けてほしい。また、本人の意見を聞くときは、それが本人の心理的負担になっていないか、本人が本心から言っていることか、よく判断してほしい(親を喜ばせたいから言っている可能性もある)。

 

 もし可能であれば親は同席せず、複数回カウンセラーなどと話させて、本心を探っていくのがよいであろう。

 

まとめ

 以上、発達障害者が小中高校で過ごすうえで留意した方がよいところを私の経験から述べた。主なポイントとしては「誰かにやらされるままやるのではなく自分は何をしたいのかを念頭に考えて自立的に行動すること」である。

「体育嫌い」になるのは当然という話

 小中高と必修教科となっている「体育」。この教科が好きな人は非常に多いが、その中で苦手に感じている人も一定数いる。そこで、私の経験をもとに体育が嫌いになる原因を考えたい。

 

 

一定数いる「体育嫌い」

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スポーツ庁(2018)より


 以上は、スポーツ庁の2018年の資料である。小学5年生と中学2年生の男女に体育の好き嫌いを問うたアンケートの結果であるが、好き・やや好きと答えた生徒の割合が8割程度かそれ以上となっている。

 

 しかし、1割から2割程度の生徒が嫌い・やや嫌いと答えている。

 

 スポーツ庁はここに問題を見出したのか、「ココを半減したい」などと言っている。しかしながら、現在の体育教育の性質上体育嫌いを減らすことは不可能である。そこで、ここでは体育嫌いが生じてしまう理由を、私の経験から考察する。

 

何のための教科書だ?何のための授業だ?

 座学教科は教科書や参考書に必要な知識や問題の解き方といったノウハウが書かれているので、読んでいけば最低限の理解はできる。また、レベル別に分けられており、わからない人は基礎的な参考書にあたることができる。

 

 しかし、体育の教科書は存在することはするものの、公式競技ルールだとか有名選手への取材に重点が置かれ、まるで教科書というよりかはスポーツ新聞やファン雑誌・ワイドショーのノリになっている。結果競技や実践以前に重要な基礎体力作りのノウハウ、その種目の基礎的な動き方やコツなどにはほとんど触れられていない。

 

 

 これは授業でも同様である。授業が始まり準備体操が終わると、何の説明も基礎的な練習もなくいきなり競技に放り込まれる。

 

 その種目に対し十分な知識があり、基礎体力作りや競技に入る前の十分な練習ができている生徒はともかく、そうでない生徒は何をしてよいかわからなくなる。

 

生徒の習熟度の差を考慮しない点

 基本的体力やその種目に対する知識、すなわちその種目の実力は生徒によって個人差がある。ここまでは当たり前なのだが、体育の問題点は異なるレベル同士の生徒を同じところに押し込んでチーム編成させ、対戦させることである。

 

 実力差も考慮せずにチームを編成させ、何も指導しないのであれば当然軋轢を生む。それ以降の指導を生徒に押し付けているだけである。そして、その責任などを権力により生徒に押し付けるのであれば、原因を運動ができない方に問題があると生徒が勘違いしだす。結果、いじめが起きるわけである。*1

 

 また、個人戦ではレベルの違うもの同士を考慮せずに対戦させていては一方的な試合となり、買った方はいつでも楽しいが負けた方は何度も同じ経験をさせられて自尊心、ひいては人格に影響を及ぼす。

 

根性だけで逃げ場がない点

  根性論を崇拝する体育教師の多いこと。

 

  私の経験だが、持久走で苦しくなったので走る速度を落としたところ、体育教師から怒鳴りつけられるという災難にあった。また、帰りの会で「速度調整して本気を出さないのはやめろ」といったお達しがなされた。さらにはマラソン大会で「規定時間以内にゴールできないものは欠席と扱う」などといった実力を考慮しないルールまで作っていた。

 

 このように、体育教師は運動のレベルや負荷を個人に合うように調整することを認めない。自分ができたからか、努力で何でもできると思っているようだ。

 

 そもそも結果は努力だけでできるものではない。本人の才能や環境が大きくかかわり、努力そのものも才能と環境によるものだ。

 

 

 また、体育は逃げ場がないのも問題である。それ以外の科目はできない場合取り組むことそのものを放棄できる(例:受験に使わない科目での内職)が、体育はそんなことはできない。権力で無理やりやらされる。同様に得意不得意関係なく全員に同一の種目をやらせる。

 

体育嫌いを減らしたいなら…

 以上、日本の体育教育の問題点と体育嫌いがどうしても出てしまう理由を述べた。要するに、これを改善せずに体育嫌いを減らすことなど不可能である。

 

 したがって、まずは以下のように改善することが必須である。

 

  • 習熟度別のクラス編成にすること。特に、レベルの異なる生徒同士を対戦させたりチームを組ませようとしないこと。
  • 自身のレベルにあった負荷調整を生徒自身ができるようにすること。
  • 体育教師は、生徒のパフォーマンスが芳しくなくても、あるいは結果が伴わなくても叱責したり、軽蔑したり、それを生徒に見せるような行為を行わないこと。「できなくて当然」を前提にすること。
  • 種目云々より、基礎体力作りとその種目の知識や基本的な動き方から教えること。
  • 生徒が自由に種目選択ができること。どうしてもできない場合は外部施設での活動や筆記課題などで単位を認めること。

*1:どうやら、かつてイギリスの公立学校は団結力や理不尽耐性をつける名目で理不尽を押し付けていじめを誘発させる教育を行っており、日本がそれを参考にしたそうである。これが本当だとすれば教育システムそのものにも問題があることになる。

発達障害者の学生生活指南 小中高ver.(前編)

 近年、(日本ではまだ遅れているものの)社会的な生きづらさが認知されるようになりある程度市民権を獲得した「発達障害」。発達障害は身体障害と違いその特性が見えづらいため周囲と勘違いされてしまうことがある。

 

 ここでは、自身の経験をもとに発達障害者が小中高校で生活するうえで留意した方がよいこと、また発達障害者をご子息に持つ保護者の方においてもご子息を理解し援助するために参考にしていただきたいことを述べていく。

 

 

発達障害の学校での苦労

 インクルーシブ教育の重要性がいわれて久しいが、日本の学校は多様な生徒が来ることを想定していない。

 

 このため、生徒全員が同じであるという仮定の下、多様な生徒を一部屋に押し込み、画一的な価値観に基づく硬直化した教育手法がとられている。

 

 この条件の下では、教員などの権力により理不尽を押し付けやすく、全員がそれに従うことが求められる。この結果「反発するものは許せない」「達成できないものは無能」という認識が共有され同調圧力(これが「絆」「団結」とよばれるものである)が生じる。

 

 これにより割を食うのは日本人が作り出したステレオタイプにはまらない人たちだ。その中には障害者も含まれ、様々な形でいじめや迫害、差別を受けている。とりわけ発達障害者は障害の特徴が見えにくいためただのわがまま、ととらえられてしまう面もある。

 

 そこで、ここでは私が小中高と経験してきたことをもとに、発達障害者が学校生活を送るうえで気を付けておいた方がよいことを列挙していく。

 

「やる気」「努力」だけではなにも解決しないことを知る

 各教科の成績が振るわなかったり、学校行事の練習などでひどく叱られた、あるいはこれらなどで人間関係が思わしくない、などといったことが起こるであろう。

 

 こんなとき理解のない人(体育会系の人に多い)が言いがちなのが「やる気を出せ」(「誠意を見せろ」「努力しろ」なども同様)である。

 

 本人はいたって本気であるにも関わらず、結果が伴っていないことをやる気や努力のの問題、と決めつけられたせいでどうしてよいのかわからなくなる。

 

 そもそも、結果というものは努力ややる気だけによるものではない。本人の才能や環境(人間関係、予算など)、そして取り組む方法に大きく依存し、そのうえで努力ややる気がわずかに底上げする程度のものである。

 

 さらに、努力ややる気そのものも才能や環境に依存する。もともとの才能の差や環境の結果やる気を失い努力できない状態になる場合も多い。

 

 

 これからいえることは、結果が出ないからと安易に努力ややる気の問題としないことであり、周囲にもそう決めつけないことが求められる。

 

 もし結果が出ないときどうするか。才能は生まれつきなのでどうしようもない。そこで、

  • 環境を変えてみる→人間関係をリセットするためクラス替えや転校を考える
  • 結果が出るような取り組み方を基本からステップバイステップで教えてもらうよう依頼する→例えば、逆上がりは練習をたくさんすればできる、とするのでなく、具体的な体の動かし方やそのための基礎体力作りから教えてもらうようにする。もしくはそれ専門の教室に頼む。
  • 結果が出ないことをしなくて済むよう調整してもらう

 

友達100人…はあきらめよう

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 童謡「一年生になったら」に「友達100人できるかな」というフレーズがある。だが、このフレーズは生徒に強迫観念を抱かせるものである。まるで「友達はたくさんいるのが素晴らしい」、逆に「友達がいないものは人間性に問題がある」と言わんばかりの歌詞だからである。

 

 現に、日本の学校ではこれに基づいた教育が行われている節がある。一人でできることもわざわざグループを組んでやらせる。そして、その相手がいないのを見てはまじめに取り組んでいないとみなす。

 

 この方針では、日本独特のコミュニケーションが苦手な発達障害者はこういったグループ作業に関し苦戦することが多い。結果的に友人を多くは作りづらい。

 

 

 つまり、発達障害者には以上のフレーズのように友達をたくさん作ることはあきらめてほしい。友達を作らないことは悪だと思って友達作りに必死になるのは精神をすり減らす。もしたくさんできたとしても「地雷」のような人(利用するためだけに友達になろうとする人など)を友達にしてしまったり、一人になる時間を確保できず心身共に疲弊したり、携帯電話などが手放せなくなる(いわゆる「未読スルー問題」)。

 

 友達を作るのであれば、以下のような人を選ぶとよいであろう。

 

  • ありのままの自分(障害特性含む)を理解してくれる人
  • 一人になる時間を認めてくれる人→特に、未読スルーなどで何度も連絡してきたり、それだけで交流関係にひびが入ったりしないか
  • ゴシップ(芸能)好きでないこと発達障害者にはこのような話題は苦痛である。また、ゴシップ好きの場合言いたくもない秘密を執拗に聞いてきたり、根も葉もないうわさを立てたり、人に秘密を言いふらしたりするため

 

 もちろん、該当者がいないあるいは作りたくない場合は無理に作らなくてもよい。

 

できるだけ一人になる時間を作ろう

 以上に続く話だが、できる限り一人になる時間を作るべきだと考える。

 

  友人をたくさん作っておくと、中には常にコンタクトを取っていないと気が済まない人もいるので、精神的休息のためにも一人になる時間を確保することを勧める。

 

 また、どんなことも誰かと一緒に行う癖がついていると、いざ一人で行動しなければならなくなったとき、どうしてよいかわからなくなるので、一人で過ごす習慣をつけて自主自立的に考え行動できるようにしておきたい。

 

よく考えて学校行事に出るか決めよう

 体育祭や文化祭といった学校行事による悪影響についても無視できない。

 

 練習から本番まで、過酷な運動や教師や周囲からの叱責により体力や精神をすり減らすこともしばしばある。

 

 無理してまでそれをするくらいなら、いっそのこと休んでしまった方がよい。事実休んだところで単位を落とすことはない。授業全体に占める行事やその練習の割合などたかが知れているし、そもそも含まれていないこともある。

 

 確かに休むことで同じようなバッシングを受ける可能性があるが、こちらはごく短時間である(長時間続くにしてもバッシングより放置の側面が強い)。練習や本番に参加して常時バッシングされ、精神を病んでしまうと取り返しがつかない。

 

 

 (※)「サボるからバッシングされるんだよ」とお考えの体育会系および自称善良な社会人の皆さん、では発達障害者などが参加するだけでバッシングせず本人の心身を痛めないように配慮することができますか?仮に練習で期待された行動ができない場合、本番で結果を出せない場合、責めずに受け入れることができますか?あと、「指摘」「𠮟咤激励」のつもりでも本人には「バッシング」「攻撃」にとらえられる可能性があることをお忘れなく。

 

後編に続く