小中高と必修教科となっている「体育」。この教科が好きな人は非常に多いが、その中で苦手に感じている人も一定数いる。そこで、私の経験をもとに体育が嫌いになる原因を考えたい。
一定数いる「体育嫌い」
以上は、スポーツ庁の2018年の資料である。小学5年生と中学2年生の男女に体育の好き嫌いを問うたアンケートの結果であるが、好き・やや好きと答えた生徒の割合が8割程度かそれ以上となっている。
しかし、1割から2割程度の生徒が嫌い・やや嫌いと答えている。
スポーツ庁はここに問題を見出したのか、「ココを半減したい」などと言っている。しかしながら、現在の体育教育の性質上体育嫌いを減らすことは不可能である。そこで、ここでは体育嫌いが生じてしまう理由を、私の経験から考察する。
何のための教科書だ?何のための授業だ?
座学教科は教科書や参考書に必要な知識や問題の解き方といったノウハウが書かれているので、読んでいけば最低限の理解はできる。また、レベル別に分けられており、わからない人は基礎的な参考書にあたることができる。
しかし、体育の教科書は存在することはするものの、公式競技ルールだとか有名選手への取材に重点が置かれ、まるで教科書というよりかはスポーツ新聞やファン雑誌・ワイドショーのノリになっている。結果競技や実践以前に重要な基礎体力作りのノウハウ、その種目の基礎的な動き方やコツなどにはほとんど触れられていない。
これは授業でも同様である。授業が始まり準備体操が終わると、何の説明も基礎的な練習もなくいきなり競技に放り込まれる。
その種目に対し十分な知識があり、基礎体力作りや競技に入る前の十分な練習ができている生徒はともかく、そうでない生徒は何をしてよいかわからなくなる。
生徒の習熟度の差を考慮しない点
基本的体力やその種目に対する知識、すなわちその種目の実力は生徒によって個人差がある。ここまでは当たり前なのだが、体育の問題点は異なるレベル同士の生徒を同じところに押し込んでチーム編成させ、対戦させることである。
実力差も考慮せずにチームを編成させ、何も指導しないのであれば当然軋轢を生む。それ以降の指導を生徒に押し付けているだけである。そして、その責任などを権力により生徒に押し付けるのであれば、原因を運動ができない方に問題があると生徒が勘違いしだす。結果、いじめが起きるわけである。*1
また、個人戦ではレベルの違うもの同士を考慮せずに対戦させていては一方的な試合となり、買った方はいつでも楽しいが負けた方は何度も同じ経験をさせられて自尊心、ひいては人格に影響を及ぼす。
根性だけで逃げ場がない点
根性論を崇拝する体育教師の多いこと。
私の経験だが、持久走で苦しくなったので走る速度を落としたところ、体育教師から怒鳴りつけられるという災難にあった。また、帰りの会で「速度調整して本気を出さないのはやめろ」といったお達しがなされた。さらにはマラソン大会で「規定時間以内にゴールできないものは欠席と扱う」などといった実力を考慮しないルールまで作っていた。
このように、体育教師は運動のレベルや負荷を個人に合うように調整することを認めない。自分ができたからか、努力で何でもできると思っているようだ。
そもそも結果は努力だけでできるものではない。本人の才能や環境が大きくかかわり、努力そのものも才能と環境によるものだ。
また、体育は逃げ場がないのも問題である。それ以外の科目はできない場合取り組むことそのものを放棄できる(例:受験に使わない科目での内職)が、体育はそんなことはできない。権力で無理やりやらされる。同様に得意不得意関係なく全員に同一の種目をやらせる。
体育嫌いを減らしたいなら…
以上、日本の体育教育の問題点と体育嫌いがどうしても出てしまう理由を述べた。要するに、これを改善せずに体育嫌いを減らすことなど不可能である。
したがって、まずは以下のように改善することが必須である。
- 習熟度別のクラス編成にすること。特に、レベルの異なる生徒同士を対戦させたりチームを組ませようとしないこと。
- 自身のレベルにあった負荷調整を生徒自身ができるようにすること。
- 体育教師は、生徒のパフォーマンスが芳しくなくても、あるいは結果が伴わなくても叱責したり、軽蔑したり、それを生徒に見せるような行為を行わないこと。「できなくて当然」を前提にすること。
- 種目云々より、基礎体力作りとその種目の知識や基本的な動き方から教えること。
- 生徒が自由に種目選択ができること。どうしてもできない場合は外部施設での活動や筆記課題などで単位を認めること。
*1:どうやら、かつてイギリスの公立学校は団結力や理不尽耐性をつける名目で理不尽を押し付けていじめを誘発させる教育を行っており、日本がそれを参考にしたそうである。これが本当だとすれば教育システムそのものにも問題があることになる。