日本社会の疑問を考えるブログ

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日本の学校は知識・教養を涵養するところではない(1)~藤井聡太氏の疑問に答える~

 最年少プロ棋士として頭角を現した藤井聡太氏。頭脳が要求される将棋で勝ち続けていることやコギャルの言葉など*1の台頭によりあまり使われなくなった日本語(瞠目、刮目など)に対する語彙力の豊富さを見るととても優秀な方だと想像できる。...さて、このようなベタ褒めはワイドショー化した昨今のメディアで腐るほど見てきたのでここまでにして、彼が学校に対して呈したある疑問について考えたい。

藤井聡太氏の疑問

 あるサイトで、彼がこのような疑問を呈していると知った。

なんで5分で理解できることを学校は45分もかけてだらだらと教授してくるの?

教師たちは職業柄、せいぜい「わからない人のため」位しか言えない。しかし、本質は「子供を縛り付けるため」であり、知識・教養の涵養は二の次である、といえる。そこで、具体例を挙げてこれを説明する。

子供を縛り付ける手段

 ここでは、子供を縛り付けていると判断できる教師の行動を、授業の面で考える。

全部理解できても退出を許さない

 これは先ほどの藤井聡太氏の疑問を短くまとめたものである。学校で教える知識なんて教科書を読めば書いてあるし、そこに載っていなくても予備校のテキストとか参考書を読めば見つかるものである。仮にそこの教師のオリジナルのものでも、そこだけ聞いて、理解できたら教師の役目はそこで終わりである。が、普通教師はそうであっても教授活動をやめない。これだけなら教師の言う「理解が不十分な生徒へのバックアップ」が通用する。しかし理解できた者が他のことを行い、この先の理解を円滑にする行為*2*3や、教室からの退室を教師は許さない。優秀な方も効率的な作業ができ、そうでない方は再度説明を聞けるので、win-winのはずだが。

出席点・ノート点

 もし学校が知識・教養を向上するのが目的なら、評価はテスト100%となるはずだ。知識を得る手段は何も人に話を聞くことだけでない。本を読むという手段がある。また、得た知識を記録する手段はノートだけでない。また、その手段がノートであるにしても書き方はいろいろある。本人に適合した記録の書式は千差万別であるにも関わらず、教師の板書と同じにさせるのだ。そして、これらを遵守できていないものはことごとく酷い評価がつけられる。

教室の環境

 日本の夏は暑い。北海道でも40℃を容易に超える。そんな中特に何の配慮もせず授業を行う。予算の都合上エアコンがないなら家で自習にして、休み明けに確認テストを行えば知識の習得になったと言える。
headlines.yahoo.co.jp
 どうしても授業をしたいのなら、熱中症対策として飲料の持ち込み・摂取を認めれば良い。しかし教師はやはり認めない。確かに、授業中アルコール類を飲用するのは周りを妨害する可能性があるので禁止されて然るべきである。しかし水やスポーツドリンクといった、水分補給を目的としたものまで禁止するのである。

これらの共通点とは

 一見授業は知識・教養を教授するところのように見えるが、なぜか教授活動以外の部分で生徒に対し活動の制限をしている。それどころか、その制限事項が多すぎる。となると、学校はただ知識を教授するところではないとなるだろう。そして、そのため生徒を縛り付けるといる手段が目的と化している節がある。しかも最後の例では過酷な条件において、「忍耐力」とごまかされる「奴隷力」を育成しているように見える。
 ...日本の学校は刑務所なのだろうか?次の記事では授業以外の面からさらに見ていく。

*1:見える化」など。本来は正しい日本語ではない。

*2:もちろん、他人を妨害する行為は除く。

*3:これについては、偏差値の高い学校を中心に教師も公認していることがある。