日本社会の疑問を考えるブログ

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教育の理想的な在り方(小中高)

 改めて小中高生だったころを思い出すと、学校には不合理もしくは生徒に対し配慮の足りない点が多く見受けられた。そこで、ここでは小学校・中学校・高等学校の学校教育で改善できるところを取り上げたい(大学・大学院については別に記事にします)。

 

 

ここで解決したい問題

 最近、学校に適合できない子供や、生徒間での(時に教員もかかわる)いじめ、教員からの体罰・ハラスメントや封建的なコミュニティ(教員への反論が許されないことやスクールカーストなど)、いわゆる「ブラック校則」*1が問題となっている。これは、様々な子供を本人の適性や才能、性格などを考慮せず狭い空間に長時間閉じ込め、画一的な考えのみが正しいと教え込むことが原因と考えられる。

 

 この場合、この考えに対する矛盾や問題点自体が組織側に定義されないため、これに何らかの瑕疵を発見した生徒やそれに対し疑問を持つ生徒は反論の機会が与えられず、もしそれが発覚した場合、「教育(矯正)」との名目で教員からのハラスメントを受けることになる。同様に教員の手先となっている生徒(奴隷のリーダー、といったものか)からも「正常化」を口実にしたいじめを受ける。結局生徒はそういった価値観に嫌気がさし、学校に来なくなるわけだ。

 

 いじめの原因はほかにもある。主に体育の球技や武道*2で顕著に表れるが、教員のクラス編成ミス*3により、明らかに実力が剥離したもの同士や、よくルールやコツの知らないものがマッチングされるので、両者に軋轢が生じる。つまり、実力の高い方は低い方を怠けだととり、逆に実力の低い方は高い方を指導や思いやりの足りない奴と思うわけだ。で、体育教師が競争や勝敗を煽るものだから、実力が高い側が「負けたのは実力が低い側が怠けているからで、彼らを矯正する必要がある」と、とんでもない考えを抱いてしまい、結局それがいじめやスクールカーストをはじめとする封建的な価値観につながるわけだ。

 

 さらに、学校自体厳密に決まった時間に始まるが、厳密に決まった時間でさっさと帰れる保証はない、という非効率な日系企業をそのまま反映させたような体制を取っている。要するにどんな眠かろうと寒かろうと体に鞭打って起床し、人によっては物理的圧力、高温多湿、そしてチカンのオンパレードである満員電車で非常に苦しく不快な思いをしてヘトヘトな状態で学校に行く。朝礼など何の役にも立たないのにその前までにいかなければいけない。で、定時に帰れるという保証はない。運よく帰宅部か幽霊部員でもよい部活への所属でもよいなら問題ないのだが、迷惑なことにそういった部活が存在せず、帰宅部や幽霊部員が問題視される場合、夜遅くまで拘束される。ここでも当然ハラスメントやいじめが起きている。

 

 さて、こういった問題を解決するため、私はICT及び外部機関の活用を提唱したい。

 

座学科目は全てICTで代用できる

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 そもそも、わざわざ決まった学校まで行って、対面で決まった教員から講義を受けなければ知識は身につかないものなのだろうか。結論から言えばそんなことはない。知識など、本でもデジタル教材でも身につく。むしろ、決まった教員だけから受けていては、自分の受けられる講義のレベル(特に高等学校ではこれが顕著)が固定化され、講義のレベルについていけないか簡単すぎて役に立たないという問題が発生する。また教授スタイルが自身の学習スタイルと合致せず学習効果が薄くなることも大いにありうる。そこで、生徒が所持する機器から様々な授業を受けられるようにすればよい。

 

 各教員は、自身の担当科目について、講義を収録し、それを生徒用端末で見られるようにする(必要に応じて更新・改善する)。同様に、各教科書会社は生徒用端末にデジタル教科書を配布する。一方で、生徒は各教員が収録した授業の中から、教授スタイル及びレベルが自分に合った教員の講義を履修(視聴)する。もちろん、教員の説明がわからなければ一旦映像を止めたり、巻き戻し・再度視聴してもよく、逆に理解できたならばハイペースで履修を進めることも可能とする。また、同一科目内でレベルや担当範囲、内容・範囲が違う複数の講義や演習講座も受講可能とすればよい。

 

 さらに、各教員や教科書会社などはその講義のレベルにあった多数の課題や問題を登録しておく。そして、各講義終了後および講座の中間・終了段階で確認テストや課題を設ける。もちろんその内容はアクセス日時によって異なる。こうすることで、生徒同士が結託して不正行為を行うことが出来なくなる。

 

 以上において、生徒はすべての課題及びテスト解答*4を提出し、教員及び教科書会社により採点され合格判定が出た場合、それをもって単位と認め、調査書の評価や上位科目*5の履修条件とする(同一科目に該当する複数の講義や演習科目を受講した場合、単位には含まない)。これを繰り返し、文部科学省が定めるすべての必修科目および卒業所要単位を満たし、卒業試験に合格した時点で卒業可能とする。なお、演習講座の受講ニーズなどに対応するため、卒業についてはそれに加え本人の同意のもとで卒業とする。もちろん、本人のペースに対応するため、1年間の修得単位に制限は設けない。この制度下では、教員が生徒の態度やら写経の程度を見るノート*6での評価ができなくなるため、完全に生徒の習熟度で評価されることになる。生徒側は教員の凝り固まった考えに疑問を抱いたせいで不当な低評価をつけられることはないし、教員側は自分の意に沿わない生徒に毎日会う必要がなくなるわけだ。

 

 もし講義内容で疑問がある場合、教員に質問するようメールシステムを整備すればよい。文章化できないほど漠然とした疑問があるのなら、その際学校に赴くなりチャットアプリで教員と話せばよい。要するに学校は質問や調べもの、家庭ではできない実験をしに、任意で行くところというわけだ(学校に行かなくても、卒業ができる)。

 

実技科目・部活動・特別活動などについて

 そうは言っても実技科目や部活動、特別活動は体を動かす活動がとられるため、ICT機器による講義受講だけではどうにもならない。しかし、こういった活動は生徒の才能がものを言う分野が多く、いじめや人間関係上の問題の主な原因となりやすいので、そこだけは非対応、というわけにはいかない。そこで、外部施設での活動も単位として認定できるようにすればよい。すなわち、今までの学校で行う実技教科が自分に合う人はそれを受講する(好きな学校へ行って受講すればよい)。一方でそれが合わない場合*7は、スポーツジムや絵画教室といった外部施設で活動を行い、その証明としてそこの講師や事務員に活動内容及び活動時間を書いてもらい、その提出と生徒の活動記録(ポートフォリオ)で評価し単位として認めればよい。部活動や特別活動などについても同様にすればよい。ただし、それを行わなかったものが不利にならないよう、つまりさらに上級の学校の入試を受けるのに不利にならないよう配慮する必要がある。

 

 なお、特別の教科「道徳」はこの際廃止した方がよい。昔は博愛や平等の精神を養うものであったが、いまは国への忠誠心(笑)とか奴隷根性を磨く内容の教科書が見受けられるので、生徒が洗脳される危険があるためである。

 

文部科学省および教育委員会の関与について

 これはできるだけ避けるべきである。すでに道徳で偏狭な愛国心を煽る教科書が出回っていたり、比較的リベラルな教科書を採用した中学校に非難の手紙が殺到することがあったり、さらには政府というもの何とかしてでも国民を奴隷にしようと考えている節があるため、政府側やそのしもべである教育委員会に教育内容について関与させれば、一億総奴隷化計画の原動力となってしまう。そこで、教育内容については各教員や学校が独自に決め、あくまで教育行政は必要単位数といった政府の思惑が限りなく入りにくい分野の告示を行うだけとするべきだ。

 

わざわざ学校に縛り付ける意味はあるのだろうか

 さて、この記事では学校教育で行われていることがICT機器を用いて自宅で、また外部施設での活動を加えれば各学校で身に着けるべき力および行うべきことの条件を満たすことになる。こう考えると、わざわざ生徒に苦しい思いをさせてまで学校に引きづり出しそこに縛り付ける意味がなくなる。というか、ある程度多様性が受け入れられてきたにもかかわらず改善されない部分が多々ありその結果問題が起きているのだから、学校に縛り付けるのは害悪であるといえる。

 

補遺1:予想される反論への解答

 予想される反論として、こんなものがあると思われる。

このシステムじゃあ、せっかく努力してその学校に入った意味がなくなるだろ?

要するに、せっかく受験に勝ち抜いて入学できたにもかかわらず、努力していない者どもが自分と同じ講義を受ける権利を保有でき、かつこの努力によるスタートラインの有利さ(例えば、偏差値の高い高等学校に入れば有名大学に行きやすくなるなど)がなくなるではないか、大学院入試でしばしば起こる学歴ロンダリングが小中高、おまけに入試以外の時期でも起こって、努力の意味がなくなるではないか、ということである。

 

 確かに、このシステムを導入すれば、生徒はどこの学校でなく、どのレベルの教育段階(偏差値でなく学校の種類や学年のこと)に所属する、ということになり、偏差値による学校のブランドがなくなる。ただ、何らかの都合により一生再挑戦の機会が得られなくなってしまったり、かなり難しいものになるのは問題だ。そこで、再挑戦の機会におけるスタートラインを平等にとるため必要であるといえる。なお、偏差値でしかブランド化できない学校や人間は何の価値もなくなるが、教育は誰がしたかではなく何を身に着けるために何を行うかを主眼に置くべきで、内容が重要である以上特に問題はない。

 

補遺2:通信制や一部予備校との違い

 通信制東進ハイスクール*8河合塾マナビスによく似たサービスがあるが、完全に同じものではない。これらは主に高等学校レベルの講義のみを行い(特に通信制は高等学校が主である)、質問も手紙でのみ行うため内容によっては回答できないことがある。また、当然ながら自分が所属していないもしくは申し込んでいないところの講義を受ける(例えば他の通信制高等学校の講義を受ける、申し込みなしに予備校の講義を受ける、など)ことはできない。

 しかし、こちらでは小中学校でも同じことを行い、かつ申し込みなしで自由に全学校の教員が行う様々なレベルや範囲の講義が受けられるもので、好きな手段で自由に質問をすることが出来る。

*1:成長期頭皮の健康のため染髪をさせないつもりが、黒色にすることと勘違いした結果地毛が黒色でない人に染髪させてしまう例など、本来の目的を見失い、生徒に害を与えるものや過度な束縛が発生する原因となっている校則のこと。

*2:学習指導要領でも、ここのみ集団競技や対戦について触れている。

*3:オンラインゲームでも同様のマルチプレイや対戦が行われているが、本人の実力やプレイヤー同士の希望により、明らかに実力の剥離したプレイヤー同士はマッチングされないようになっており、何よりも苦手なら参加しない自由がある。これが体育の授業と大きく異なる点である。

*4:知識偏重が懸念されるならば、課題研究及び論文を要求すればよい。

*5:例えば、物理基礎の上位科目として物理がある。後者の受講には前者の修得が必要。

*6:「東大生(東大合格者だったか)のノートは美しい」などと言う書籍があったが、字が汚い人ほど頭がいいといううわさもあるし、逆に美しくノートを書いたからと言って東大に合格するとは限らないため、ノートの書き方は評価に入れるべきではない。

*7:旅行先や外部施設でのコーチはそれ専門に教えているため非常に指導が上手だ。そこで、こちらの方が合う生徒も一定数いるであろう。

*8:全部がそうなっているわけではない。東大特進コース(御茶ノ水)や難関大志望の浪人生専用校舎(新宿)は対面授業となっている。