「郷に入っては郷に従え」の乱用
日本人は、「郷に入っては郷に従え」を同調圧力の口実とするだけでなく、そのローカルルールが法を超越すると勘違いしている。そこで、ここでは日本人のそういった性質を批判したい。
- 「郷に入っては郷に従え」とは?
- 時代遅れのルールを放置してよいわけではない
- 新入りを迫害してよい理由にはならない
- ローカルルールは法律や憲法・国際的な倫理を超越してはならない
- 日本人はたまにはローカルルールを疑いましょう
「郷に入っては郷に従え」とは?
「郷に入って(おいて)は郷に従え」とは、中国のことわざで、文字通り「ある社会集団に入ったらそこでの制度や慣習などを覚え、それを踏まえた行動をとった方がやりやすいことがあるよ」という、入った側の処世術程度のものであり、決して「郷」にいる側が不合理なローカルルールに固執し、それを構成員に強制するためのものではない。
このようなことが通用する場面としては、主に制度面、交通機関の利用や役所での申請などが当てはまる。例えば東京で地下鉄や短距離乗り合いバスに乗るときは1回ごとに料金を支払うことが多いが、ミラノでは最低数十分の乗り放題券を購入し乗車する形になる。郷に入っては郷に従えとは、要するにこういった生活の方法を知るだけのものである。
時代遅れのルールを放置してよいわけではない
前項で書いたが、このことわざはあくまで入った側が心がける程度のものである。したがって、これを不合理なローカルルールに固執する言い訳にすることはできない。そもそも不合理なローカルルールや慣習は現時点での生活条件から見て明らかに不便であるか、資材を活用することによってさらに効率化することが可能であることが不合理たるゆえんである。よって、こういったルールはすぐにでも改革、場合によっては廃止していく必要がある。
同様に、これを改革する主体が制限されてはならない。すなわち、新入りであっても改革案を提起し実行する権限はある。要するに、「新入りのくせに生意気だ」というのは認められないということである。この主体が(例えばそのコミュニティに在籍する期間などで)制限されてしまえば、自由な意見発信ができなくなり、こういった不合理なルールがいつまでたっても変わらないことになる。
なお、「新入りのくせに生意気だ」と合わせて言われるのが、「このコミュニティの基盤を作ったのは誰だと思っている(よって感謝しろ)」がある。確かにコミュニティの基盤を作り、「当時」利便性を高めたのはそういった先人であろう。しかし時代が変わるにつれ不合理になってくるわけである。結局感謝するあまりそのルールをそのままにしていては、ただ不便・非効率なだけである。
新入りを迫害してよい理由にはならない
新入りはこういったローカルルールを知らないことがしばしばあり、それにより何らかのトラブルを起こすことがあるが、それを迫害の口実にしてはならない。あくまでそのルールの詳細を説明し、かつそれを守ることによってどういった利益があるのか(なぜ守る必要があるのか)を明確にして話す必要がある。もちろん、それを絶対視させないように配慮する必要がある。
なお、以下の事例は日本のコミュニティでたまに起こる事例であるが、もってのほかであることを指摘しておく。
わざとローカルルールを教えず、知らないのは本人の責任にして相手を混乱させて楽しむこと
ローカルルールは法律や憲法・国際的な倫理を超越してはならない
これは、ブラック企業と社畜によって引き起こされることであり、これにって怒るセリフに「俺が法律だ」といったものがある。
ここではブラック企業の例で考えよう。いくら「非現実的」「そうしてしまっては会社がつぶれる」などといってもローカルルールより労働基準法の方が優越するわけである。規則はまず頂点に(国がバカなことをしないため国民が国を縛るための)憲法があり、その下に法律がある。結局のところこういったローカルルールは最下層に位置するわけであり、憲法や法律に反していれば直ちに無効となる。
ブラック企業の社畜がよく言う反論として「仕事ができるようになってから言え」「だったら辞めろ」「自分で起業したらどうだ」というものがあるが、これも的外れな反論であるといえる。理由は先ほど述べたとおりである。
日本人はたまにはローカルルールを疑いましょう
このように、一度ルールを決めたら柔軟に考えられないのが日本人である(しかも、自分が別の郷に入った際は、かつていたコミュニティのローカルルールを押し付ける始末)。こういった日本人に必要なのは、やはりローカルルールを疑い、柔軟に思考する能力であろう。